「プーケット」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 09, 2021 次の年、一九八九年の一二月にはタイのプーケットに行った。やはり二泊で泊ったのはメリディアン・ホテルだったと思う。ここでは次男の小学校の女子クラス・メイトの家族と一緒に島で泳いで、プーケットの街で夕食を食べた記憶がある。南海のリゾートでのクリスマスを楽しんだ。プーケット リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
「中学生時代の『丸』」 12月 22, 2020 中学生時代には、本とのかかわりはあまりなく、一番上の谷岡の義兄が雑誌『丸』の愛読者であり、読み終わった雑誌を、私たち兄弟に送ってくれていた。その『丸』を読むというより、写真を見ることで帝国海軍の軍艦の勇壮さと機能美に惹きつけられ、かなりの軍艦名を覚えた。『丸』とは別に日本帝国海軍艦船写真集を持っていた。その本には一九三七年五月の英国王ジョージ六世の戴冠記念観船式が載っており、それに日本帝国海軍の妙高型重巡洋艦の「足柄」が参加していたが、ドイツの最新鋭ドイッチュラント型装甲小型戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」と並んで引けを取らない「足柄」の雄姿に、心踊らせたものである。「足柄」の規模と「グラーフ・シュペー」の規模を比較すると、下記の通りである。前記が「足柄」、後記が「グラーフ・シュペー」である。 就役時期 一九二九年:一九三六年 基準排水量 一三〇〇〇トン:一二一〇〇トン 全長 二〇三メートル:一八六メートル 速力 三五・五ノット:二八・五ノット 航続距離 一三〇〇〇キロ(一四ノット):一六五〇〇キロ(一〇ノット) 主砲 二〇センチ三連装五基:二八・三センチ三連装二基 乗員 七〇四名:一一五〇名 一九三七年の戴冠記念観船式には英国から重巡洋艦「エクセター」も参加していた。重巡洋艦「エクセター」は 一九三一年就役の排水量九〇〇〇トンの重巡で、ポケット新鋭戦艦として大西洋で輸送船狩りに大活躍していた「グラーフ・シュペー」を一九三九年にラプラタ沖海戦で捕捉して、砲撃で戦闘不能とし、「グラーフ・シュペー」を中立国ウルグアイのモンテビデオ港に逃げ込ませた。しかし英国に近いウルグアイは七二時間の修理期限しか与えず、「グラーフ・シュペー」は修理もできないまま四〇名の乗組員で出港し、ラングスドルフ艦長は無理やり乗務員に降ろされて、艦と運命を共にしなかった。しかし、その後ホテルの部屋で自裁した。これは『戦艦シュペー号の最期』という映画で有名となったが、 このいきさつには続きがある。一九四二年に「エクセター」は太平洋の戦場に来ており、スラバヤ沖海戦で日本海軍の重巡四隻( 那智、羽黒、足柄、妙高) の砲撃と水雷で撃沈された。その後重巡「足柄」は終戦直前まで生き残っていたが、一九四五年六月に米潜水艦の雷撃により沈没した。なお海上自衛隊の... 続きを読む
「ボストンへの旅」 12月 30, 2020 一九七六年の一月一九日に長男が生まれた。長男の誕生に際しては色々な人からお祝いの品を頂いたが、 I 家から頂いたピーター・ラビットのぬいぐるみと、 I 家から頂いたプラスチック製のロコモーティフは今でも残っており、ロコモーティフの方は四人の孫たちがいまでもねじを巻いて動かして、遊んでいる。四月にはライ・ビーチへ連れて行ったが、もう泳いでいる人たちがいるのには驚いた。ゴルフは MAPLE MORE GOLF COURSE にウェストチェスターの同僚たちとよく出かけた。自宅のすぐそばの BRONX RIVER PARKWAY には長男を連れてよく遊びに行ったが、新婚さんの写真を写す格好の場所でもあった。 五月にはボストンに行った。長男はまだ四ヶ月であり、自動車用のクリブに乗せて連れて行ったが、クーラーがないので暑くて大変であった。 OLD STATE HOUSE 、マサチューセッツ州議会議事堂、ジョージア王朝風のパーク通り教会、キングス・チャペル(英国国教会)、旧市庁舎とベンジャミン・フランクリン像などを見て回り、それからボストン美術館へ行った。当時の私の西洋美術認識は印象派の域を出ていなかったので、印象派の絵画ばかりを見ていた。ボストン美術館は、二〇世紀までのアメリカンアートとヨーロッパ印象派、ポスト印象派の作品、それにエジプト美術が特に充実しているとのことであったが、記憶に残っているのは印象派の作品と東洋美術の浮世絵の作品であった。印象派及び後期印象派の作品で有名なものは下記の通りである。 クロード・モネ 『着物をまとうカミーユ・モネ』 一八七五 - 七六年 『ルーアン大聖堂(太陽の効果)』 一八九四年 『ルーアン大聖堂(正面・夜明け)』 一八九四年 『睡蓮』 一九〇五年 メアリー・カセット 『座敷席にて』 一八七八年 ピエール=オーギュスト・ルノワール 『ブージヴァルのダンス』 一八八三年 フィンセント・ファン・ゴッホ 『郵便配達人ジョセフ・ルーラン』 一八八八年 ポール・ゴーギャン 『我々は何処から来たのか、我々は何者か、 我々は何処へ行くのか』 一八九七—九八年 ... 続きを読む
『愛と死』 武者小路実篤 12月 22, 2020 『愛と死』で滂沱の感涙を流した個所は次の通りである。場面は主人公・村岡が先輩の文筆家・野々村の妹であり、許嫁である夏子の流行性感冒による急死の電報を、フランスより帰国途上のシンガポールにおいて受け取るところである。ボーイが持ってきた電報の内容は、下記の通りであった。 「ケサ三ジ ナツコリュウコウセイカンボウデシス カナシミキワマリナシ スマヌ ノノムラ」 まさに夏子との再会と結婚という天国を控えていたはずの主人公・村岡に、神が下したのは夏子の死という地獄の苦しみであった。なぜ自分にこんな不条理が、試練が与えられなければならないのだろうかと思うことは、人生で幾度もあるものである。その不条理や試練は、変えられないものである限り、決してそこから逃避するのではなく、しっかりと受け止め、我慢強く耐えて、そして乗り超えなければいけないものである。 雨の新宿御苑の桜 続きを読む
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