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「ハイデルベルクからミュンヘンへ」

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翌朝ハイデルベルク城を訪れる。『アルト・ハイデルベルク』に登場するネッカー河は緑濃かった。次いでバスはアウトバーンを高速で飛ばしながら、シュタットガルト、アウグスブルグ経由ミュンヘンへ向かう。 ハイデルベルク城からネッカー川を望む  

「アムステルダムからケルンへ」

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  翌日はユトレヒトやアーヘンを経由してドイツへ入国。パスポートの提示無し。バスはエッセン、ドルトムントを中心とするルール工業地帯を抜けて、一路ケルンへ。一二四八年着工以来六百年かかつて一八八〇年に刊行されたネオ・ゴシックのケルン大聖堂を拝観する。首都のボンを経て、ライン河下りに乗船。下船して、ハイデルベルクへ。 ケルン大聖堂

「船でオランダへ」

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  ツアー・バスで、ノボテルを出てロンドンよりハーウィック港へ午後八時前に着く。三万五千トンの船でオランダへ。船中泊。オランダについてマルケン島で風車の地区などを観光する。フォレンダムでシーフードを食べて、アムステルダムへ。遊覧船ののち国立美術館でレンブラントの『夜警』とフェルメールの『牛乳を注ぐ女』を見る。その後はダイヤモンド工場へ。 オランダの風車

「初めての欧州旅行 ロンドン」

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  一九八八年の七月には、富士銀行の仲間家族で西貢へのクルージングと海水浴を楽しんだ。また広島県人会でも香港島周辺の夕景色クルージングに参加した。 八月には家族四人で初めてのヨーロッパ旅行へ参加した。啓徳空港からブリティッシュ・エアウェイズの飛行機に乗り、南回りでロンドンのヒースロー空港まで飛ぶ。途中の給油を入れて、一四時間は長かった。観光バス一時間半のコースに乗る。著名な観光名所を周る。午後はボンド・ストリートを見て、王立美術館を拝観した。 London Bridge

「香港へ来遊された方々」

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最初に親戚・知人で香港に来遊したのは、妻の両親と義妹とその息子のM君であった。一九八八年の二月である。一週間近く滞在したが、その間ニュー・テリトリーのロクマチャウから中国本土を見て、その後レイユームンで海鮮料理を食べ、静松観の寺院を観光する一日や、マカオにジェットホイルで行き、ミニバス観光で古寺院、聖ポール天主堂跡、ポルトガル料理などを愉しんだ一日など、香港市街での買い物や食事なども含めて、楽しんで頂いた。また丁度旧正月の時期にあたり、マーケティング部門の現地行員とその家族を我が家に招待し、食事のあとトランプやマージャンで遊んだが、義父は大きめの広東牌の香港式マージャンを観戦するだけで覚えて、最終的には勝ちマージャンを打ったのは、流石であった。 同じ二月に義兄のN家のT君が来港した。香港島の南東にあるスタンレー・マーケット、大丸、飲茶、女人街、ペニンシュラのエルメスでのスカーフ購入を楽しんで帰った。 一九八八年九月にはN家のM君が自分の歯科医院の技工士、看護婦を連れて来港。歯科治療剤を購入し、香港観光をして帰国した。同じ月に広島の父母、四番目の姉とその長男T君が来港。約一週間滞在した。ペニンシュラ・ホテルの喫茶、シェラトン・ホテルの日本料理・雲海、中華百貨店、ホープウェル・センターのレボルビング六六、タイガーバウム公園、ビクトリア・ピーク、アバディーン、レパルス・ベイ、スタンレー・マーケット、ジャスコ、香港の地下鉄、カオルーン・クラブなどを案内して、父は書画用の筆や墨を沢山仕入れて満足して帰国した。翌月の一〇月には、銀行の業務で S さんが取引先と一緒に来港、 O さんにお仕えしたこともあり、旧交をご一緒に温めた。 S さんは、もう一度業務で来港されている。 又大阪外事でお仕えした K さんや京阪神サッカー部でお世話になった K さんも、 O さん共々歓待し、広島支店でお仕えした K さん、本店営業部時代の N さん、目黒支店時代の A さん、その他多くの銀行の先輩や同輩、学生時代の友人などが来遊しに来た。   旧正月の自宅でのパーティ

「マーケティング部門で」

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  香港在勤で一番充実し楽しかったのは一九八七年一二月からのマーケティング部門担当の二年半であった。一九八八年二月には最大の取引先である K 社の役員と共に販売先の汕頭を O 副董事長と共に訪問した。そして廣安銀行と富士銀行との合弁二〇周年記念パーティ、毎旧正月における百近くのテーブルに顧客を招待してのスプリング・ディナー、我が家にマーケティング部門のメンバーと家族を招待しての旧正月の接待。オーナー役員とのタイへのビジネス旅行、マーケティング部門の上海蟹パーティ、行内サッカー大会での優勝、ドラゴン・ボートの応援、マカオ・広州・東莞への工場見学を兼ねたビジネス旅行など、思い出は数えればきりがない。 歴史的な事件としては、何といっても一九八九年六月四日の天安門事件であった。 Spring Dinner

「香港での勤務」

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二度目の海外勤務となった。一九八七年五月に、まずは引継の為に一週間香港へ出向いた。啓徳空港が近づき、町の家並みがはっきりとわかるようになる。まさに印象は雑然とした街だ。一階が商店街で二階以上が住居階となっているらしいビルが多く、そのほとんどが窓から洗濯物を吊り下げている。 出向先の廣安銀行は地場銀行であり、セントラル地区の中央市場のそばにその本店があった。私の担当業務は当初はコーポレイト・プラニング部であったが、後にマーケティング部、そして審査・国際部門と三つの協理( CHIEF MANAGER )を担当した。 住居は日本人学校から近い塞西湖(チョイサイウー)の寶馬山道(ボウマーサントウ)にあるブレーマー・ヒルズという高層マンションである。マンションは三十七号棟(サムサップチャホウ)であり、その二〇階の B 室が我が家であった。 啓徳空港を見下ろす リビングルームのテラスからは、正面真下に啓徳空港を見下ろすことができ、飛行機の発着するのが見えた。眺望は素晴らしかった。