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カバヤ文庫

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  本を読むということを自分で意識したのは、何歳くらいからであろうか。昭和二〇年の秋に母のお腹にいた私は、韓国(当時は朝鮮)のソウル(京城)から玄界灘を漁船で帰国し、翌昭和二一年の一月に山口県の柳井で生まれた。その産土の地である柳井の記憶はほとんどなく、記憶があるのは、広島の京橋町の京橋保育園の頃からである。 保育園時代に何か絵本で覚えているものがあるかというと、まったく思い浮かばない。覚えているのは京橋保育園を経営していた広寂寺の日曜講話であり、ある日の講話で「殺生は悪いことである」という言葉が私の幼い心に突き刺さって、それ以来肉と魚を食べたくなくなったということがあった。講話の悪しき効果により、大学生になるまでこの偏食は続いた。 当時はまだ紙芝居屋さんが自転車で各町を周っていた時代で、水あめを買って紙芝居を見るのが楽しみであった。小学校に入ってより、高学年になってからであろうか、お菓子のカバヤが景品でくれるカバヤ文庫を読んだのが、本らしきものを読んだ初めではなかろうかと思う。当時一〇円のキャラメルを買うと中に図書券が入っており、これを集めるとカバヤ文庫が貰えるのであった。今でも覚えているのは『隊長ブーリバ』と『モヒカン族の最後』と『山中鹿之助』であるが、カバヤ文庫一覧を見ると『モヒカン族の最後』ではなくて『鮮血のモヒカン族』であり、『山中鹿之助』はカバヤ文庫ではなかったようだ。一般的に少年が読む有名な本でなく、特徴のある名前であったので記憶に残っているのであろうか。それにしても一般の少年少女が読むような本は全く記憶にないということは、たぶんそれらの本は家になかったし、読んでいなかったのであろうと思う。欧米の戦闘ものや日本の講談本しか、身近になかったということであろう。 広島 縮景園(泉邸)

「この道より」 武者小路 実篤

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  「この道より我を生かす道なし この道を行く  実篤」   この短い詩のような、もしくは箴言のような言葉が、人間というものの揺れて定まらぬ心の背骨となって、人の精神面を支えるものとなることを、初めて知ったのは高校二年生の頃であったろうか。 高校生になってより石坂洋次郎の『青い山脈』や『若い人』、下村湖人の『次郎物語』や武者小路実篤の『友情』と『愛と死』を読み、読書というものが、人間の感情を揺さぶり、魂を震わせるものだということを、初めて感じるようになった。 特に『愛と死』は未だ知らない恋愛というものを疑似体験させてくれ、愛する人の死というものに感情移入して、生まれて初めて読書で涕涙を流したものであった。  実篤には、思いこんだ一つの道しかなかったのであろうが、自分には色々な選択があった、そしてその選択の都度、人生の可能性は狭まるものではないかと疑っていたが、人生とはそういうものではなく、どの道も広く深く長いものであった。 <武者小路 実篤>  1885年(明治18年)~1976年(昭和51年) 藤原北家の支流である閑院流の末裔、武者小路子爵家の八男。学習院高校より東京帝国大学社会学に進むが中退して、文筆に励む。トルストイに傾倒し、聖書、仏典、夏目漱石などを愛読。志賀直哉、有馬武郎、有馬生馬らと『白樺』を刊行。理想的な調和社会の実現を目指し、宮崎県に「新しき村」を創建、6年間で終わったがその理想は長く残った。離婚と再婚を経験。昭和11年に経験した欧州旅行における黄色人種への偏見による屈辱で、戦争支持者となり、戦争協力を行った。分かりやすく簡明でありながら、深い思考に基づいた恋愛、友情、人生や死についての彼の文章は、読者の心に沁み込んでくるところがある。「仲良きことは、美しきかな」という言葉も忘れ難い。90歳で病没。 道