「ヴェニス サンマルコ広場」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 06, 2021 朝食後、サン・マルコ広場に行く。サン・マルコ寺院とドゥカーレ宮殿を拝観する。ベネティアン・グラスの工場も見学する。午後はラグーン(潟)・クルーズ。夕食後、水上タクシーでオペレッタへ行き、カンツォーネを聴く。ヴェニス サンマルコ広場 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
『愛と死』 武者小路実篤 12月 22, 2020 『愛と死』で滂沱の感涙を流した個所は次の通りである。場面は主人公・村岡が先輩の文筆家・野々村の妹であり、許嫁である夏子の流行性感冒による急死の電報を、フランスより帰国途上のシンガポールにおいて受け取るところである。ボーイが持ってきた電報の内容は、下記の通りであった。 「ケサ三ジ ナツコリュウコウセイカンボウデシス カナシミキワマリナシ スマヌ ノノムラ」 まさに夏子との再会と結婚という天国を控えていたはずの主人公・村岡に、神が下したのは夏子の死という地獄の苦しみであった。なぜ自分にこんな不条理が、試練が与えられなければならないのだろうかと思うことは、人生で幾度もあるものである。その不条理や試練は、変えられないものである限り、決してそこから逃避するのではなく、しっかりと受け止め、我慢強く耐えて、そして乗り超えなければいけないものである。 雨の新宿御苑の桜 続きを読む
「橋を架ける」 美智子上皇后 1 12月 22, 2020 本についての文章と言えば、美智子皇后(当時)の「 子供の本を通しての平和-子供時代の読書の思い出 」という有名な講演がある 。この講演は第二六回 IBBY ニューデリー大会(一九九八年)の基調講演 であり、その中で美智子上皇后は次のように語っておられる。 「 生まれて以来,人は自分と周囲との間に,一つ一つ橋をかけ,人とも,物ともつながりを深め,それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり,かけても橋としての機能を果たさなかったり,時として橋をかける意志を失った時,人は孤立し,平和を失います。この橋は外に向かうだけでなく,内にも向かい,自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ,本当の自分を発見し,自己の確立をうながしていくように思います。」 足立美術館 続きを読む
『かくれ里』 白洲正子 「神子の山桜」 12月 28, 2020 これは随分後の話となるが、平成一三年頃に白洲正子の『かくれ里』を読んでいる時、「神子の山桜」の章に区長として義父の名前が登場していたのであった。たまたま我が家でお正月休みを過ごしていた義母に「昭和三九年頃に白洲正子が神子に来て、亡くなった義父が神子の山桜を白洲正子に案内したそうだけど覚えているか」と聞いてみたが、「さあそういえば何か偉い人が来たようなことがあった」と、曖昧な返事であった。 「若狭のどこかに『神子ざくら』といって、大そうきれいな花があることを聞いていたが、へんぴな所らしく、京都でたずねてみても誰も知っている人はいない。仕方なしに、東京の編集者さんにしらべて貰うと、それは敦賀と小浜の間につき出た、常神半島の一角にある、神子部落という村で、桜は満開だから、今日明日にも来い、ということである。電話に出たのは、その村の区長さんで、京都からくるなら、車の方がいい、敦賀に出て、国道を西へ行くと、三方という町がある、そこで聞けばわかると、ことこまやかに教えて下さった。」 「神子に近づくにしたがい、大木の桜があちらこちらに見えはじめ、塩坂、遊子、小川を過ぎ、最後の岬を回ったとたん、山から下の浜へかけて、いっきに崩れ落ちる花の滝が現出した。人に聞くまでもなく、それが名におう『神子ざくら』であった。」 「嘗ての嵐山も、ほぼこれに近い盛観だったのではあるまいか。区長さんに伺ったところによると、この桜は観賞用に植えたものではなく、ころび(桐実と書く、油をとる木)の畑の境界に植えたものとかで、村人の生活と結びついていたために、手入れもよく行きとどいた。そういわれてみると、やや正確な井桁模様に咲いており、そういう風習がなくなった今日、保って行くのは大変なことではないかと思う。 神子は古く『御賀尾』と書き、それがつまってミコと呼ばれるようになったと聞く。だが、古い歴史を持つ土地がらであってみれば、必ず神様と関係があったに違いない。」 白洲 正子 『かくれ里』 「花をもとめて」 神子桜 続きを読む
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