『かくれ里』 白洲正子 「神子の山桜」

 これは随分後の話となるが、平成一三年頃に白洲正子の『かくれ里』を読んでいる時、「神子の山桜」の章に区長として義父の名前が登場していたのであった。たまたま我が家でお正月休みを過ごしていた義母に「昭和三九年頃に白洲正子が神子に来て、亡くなった義父が神子の山桜を白洲正子に案内したそうだけど覚えているか」と聞いてみたが、「さあそういえば何か偉い人が来たようなことがあった」と、曖昧な返事であった。

「若狭のどこかに『神子ざくら』といって、大そうきれいな花があることを聞いていたが、へんぴな所らしく、京都でたずねてみても誰も知っている人はいない。仕方なしに、東京の編集者さんにしらべて貰うと、それは敦賀と小浜の間につき出た、常神半島の一角にある、神子部落という村で、桜は満開だから、今日明日にも来い、ということである。電話に出たのは、その村の区長さんで、京都からくるなら、車の方がいい、敦賀に出て、国道を西へ行くと、三方という町がある、そこで聞けばわかると、ことこまやかに教えて下さった。」

「神子に近づくにしたがい、大木の桜があちらこちらに見えはじめ、塩坂、遊子、小川を過ぎ、最後の岬を回ったとたん、山から下の浜へかけて、いっきに崩れ落ちる花の滝が現出した。人に聞くまでもなく、それが名におう『神子ざくら』であった。」

「嘗ての嵐山も、ほぼこれに近い盛観だったのではあるまいか。区長さんに伺ったところによると、この桜は観賞用に植えたものではなく、ころび(桐実と書く、油をとる木)の畑の境界に植えたものとかで、村人の生活と結びついていたために、手入れもよく行きとどいた。そういわれてみると、やや正確な井桁模様に咲いており、そういう風習がなくなった今日、保って行くのは大変なことではないかと思う。

 神子は古く『御賀尾』と書き、それがつまってミコと呼ばれるようになったと聞く。だが、古い歴史を持つ土地がらであってみれば、必ず神様と関係があったに違いない。」

       白洲 正子  『かくれ里』 「花をもとめて」

神子桜


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