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「橋を架ける」 美智子上皇后 2

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  「 本の中で人生の悲しみを知ることは,自分の人生に幾ばくかの厚みを加え,他者への思いを深めますが,本の中で,過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは,読む者に生きる喜びを与え,失意の時に生きようとする希望を取り戻させ,再び飛翔する翼をととのえさせます。悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには,悲しみに耐える心が養われると共に,喜びを敏感に感じとる心,又,喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。 そして最後にもう一つ,本への感謝をこめてつけ加えます。読書は,人生の全てが,決して単純でないことを教えてくれました。私たちは,複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。」     前半の美智子上皇后のお言葉は、人というものは周りの人々に橋を架けて生きてゆくのみならず、自分の内面においても自己に橋を架けることで、本当の自分を発見し自己を確立してゆく存在であることを説いておられる。また後半については、本を読むことは、読者に生きる喜びと希望を与え、また悲しみに耐える力を与えるということを、そしてまた読書は人生が単純でないこと、そして人間関係においても国同士の関係においても、我々人間存在は複雑さに耐えて生きてゆかねばならないとお話しされている。  人間存在と人間関係を深く洞察された上で、読書というものが人間に生きる喜びと希望を、そして悲しみに耐える力を与えてくれることを、美智子上皇后はご自分の人生と読書の経験の中から見いだされ、子供達への温かなエールとされておられる。クイーンズ・イングリッシュのスピーチの見事さもさることながら、そのご教養の高さと深さ、またそのご品格の高潔さと崇高さに、美智子上皇后が現在の日本に存在されておられることのありがたさを覚えないではいられない。 足立美術館

「橋を架ける」 美智子上皇后 1

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  本についての文章と言えば、美智子皇后(当時)の「 子供の本を通しての平和-子供時代の読書の思い出 」という有名な講演がある 。この講演は第二六回 IBBY ニューデリー大会(一九九八年)の基調講演 であり、その中で美智子上皇后は次のように語っておられる。 「 生まれて以来,人は自分と周囲との間に,一つ一つ橋をかけ,人とも,物ともつながりを深め,それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり,かけても橋としての機能を果たさなかったり,時として橋をかける意志を失った時,人は孤立し,平和を失います。この橋は外に向かうだけでなく,内にも向かい,自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ,本当の自分を発見し,自己の確立をうながしていくように思います。」   足立美術館

カバヤ文庫

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  本を読むということを自分で意識したのは、何歳くらいからであろうか。昭和二〇年の秋に母のお腹にいた私は、韓国(当時は朝鮮)のソウル(京城)から玄界灘を漁船で帰国し、翌昭和二一年の一月に山口県の柳井で生まれた。その産土の地である柳井の記憶はほとんどなく、記憶があるのは、広島の京橋町の京橋保育園の頃からである。 保育園時代に何か絵本で覚えているものがあるかというと、まったく思い浮かばない。覚えているのは京橋保育園を経営していた広寂寺の日曜講話であり、ある日の講話で「殺生は悪いことである」という言葉が私の幼い心に突き刺さって、それ以来肉と魚を食べたくなくなったということがあった。講話の悪しき効果により、大学生になるまでこの偏食は続いた。 当時はまだ紙芝居屋さんが自転車で各町を周っていた時代で、水あめを買って紙芝居を見るのが楽しみであった。小学校に入ってより、高学年になってからであろうか、お菓子のカバヤが景品でくれるカバヤ文庫を読んだのが、本らしきものを読んだ初めではなかろうかと思う。当時一〇円のキャラメルを買うと中に図書券が入っており、これを集めるとカバヤ文庫が貰えるのであった。今でも覚えているのは『隊長ブーリバ』と『モヒカン族の最後』と『山中鹿之助』であるが、カバヤ文庫一覧を見ると『モヒカン族の最後』ではなくて『鮮血のモヒカン族』であり、『山中鹿之助』はカバヤ文庫ではなかったようだ。一般的に少年が読む有名な本でなく、特徴のある名前であったので記憶に残っているのであろうか。それにしても一般の少年少女が読むような本は全く記憶にないということは、たぶんそれらの本は家になかったし、読んでいなかったのであろうと思う。欧米の戦闘ものや日本の講談本しか、身近になかったということであろう。 広島 縮景園(泉邸)

「この道より」 武者小路 実篤

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  「この道より我を生かす道なし この道を行く  実篤」   この短い詩のような、もしくは箴言のような言葉が、人間というものの揺れて定まらぬ心の背骨となって、人の精神面を支えるものとなることを、初めて知ったのは高校二年生の頃であったろうか。 高校生になってより石坂洋次郎の『青い山脈』や『若い人』、下村湖人の『次郎物語』や武者小路実篤の『友情』と『愛と死』を読み、読書というものが、人間の感情を揺さぶり、魂を震わせるものだということを、初めて感じるようになった。 特に『愛と死』は未だ知らない恋愛というものを疑似体験させてくれ、愛する人の死というものに感情移入して、生まれて初めて読書で涕涙を流したものであった。  実篤には、思いこんだ一つの道しかなかったのであろうが、自分には色々な選択があった、そしてその選択の都度、人生の可能性は狭まるものではないかと疑っていたが、人生とはそういうものではなく、どの道も広く深く長いものであった。 <武者小路 実篤>  1885年(明治18年)~1976年(昭和51年) 藤原北家の支流である閑院流の末裔、武者小路子爵家の八男。学習院高校より東京帝国大学社会学に進むが中退して、文筆に励む。トルストイに傾倒し、聖書、仏典、夏目漱石などを愛読。志賀直哉、有馬武郎、有馬生馬らと『白樺』を刊行。理想的な調和社会の実現を目指し、宮崎県に「新しき村」を創建、6年間で終わったがその理想は長く残った。離婚と再婚を経験。昭和11年に経験した欧州旅行における黄色人種への偏見による屈辱で、戦争支持者となり、戦争協力を行った。分かりやすく簡明でありながら、深い思考に基づいた恋愛、友情、人生や死についての彼の文章は、読者の心に沁み込んでくるところがある。「仲良きことは、美しきかな」という言葉も忘れ難い。90歳で病没。 道