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「洋画 『誰がために鐘は鳴る』など」

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映画の製作年は前後するが、マーガレット・ミッチェル原作でヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル主演の『風と共に去りぬ』、ゲイリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演の『誰が為に鐘は鳴る』、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』、オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック主演の『ローマの休日』などは、もう高校生になってから、試験の終わった後などに観覧した記憶がある。中間試験や期末試験が終わると自転車を連ねて映画館に通ったものである。    No man is an island, Entire of itself. Each is a piece of the continent, A part of the main. If a clod be washed away by the sea, Europe is the less. As well as if a promontory were. As well as if a manner of thine own Or of thine friend's were. Each man's death diminishes me, For I am involved in mankind. Therefore, send not to know For whom the bell tolls, It tolls for thee.   John Donne Devotions upon Emergent Occasions, no. 17 (Meditation) 1624 (published) なんびとも一島嶼にてはあらず、 なんびともみずからにして全きはなし、 人はみな 大陸 ( くが ) の 一塊 ( ひとくれ ) 、 本土のひとひら そのひとひらの 土塊 ( つちくれ ) を、 波のきたりて洗いゆけば、 洗われしだけ欧州の土の失せるは、 さながらに岬の失せるなり、 汝が友どちや 汝 ( なれ ) みずからの  荘園 ( その ) の失せるなり、 なんびとのみまかりゆくもこれに似て、 みずからを 殺 ( そ ) ぐにひとし、 そはわれもまた人類の一部なれば、 ゆえに問うなかれ、 誰がために鐘は鳴るやと、 そは汝がために鳴

「洋画 キリスト教関連」

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 西部劇の次はキリスト教関連映画で、ジーン・シモンズ、リチャード・バートン主演の『聖衣』におけるジーン・シモンズの気高い気品のある美しさに感銘した。シェンキヴィッチ原作の『クォ・ヴァディス』はロバート・テイラーとデボラ・カーが演じた。そしてアンソニー・クイン、ジーナ・ロロブリジータ主演の『ノートルダムのせむし男』、共にチャールトン・ヘストン主演の『十戒』と『ベン・ハー』。ローマ観光の折に、騎馬での戦車競技場を見た時にはすぐに『ベン・ハー』の映画の場面が浮かんだものであった。この辺りまでは、まだ中学生で父と一緒に見に行っていたように思う。 ローマの戦車競技場跡

「洋画 西部劇」

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小学生時代から父に連れられて、ジョニー・ワイズミューラーの『ターザン』のシリーズはよく観覧に行った。ターザンの次は西部劇である。最初に見たのがヘンリー・フォンダ主演の『荒野の決闘』で、監督はジョン・フォード、映画音楽は『愛しのクレメンタイン』であった。 Oh bury me not on the lone prairie. These words came low and mournfully From the pallid lips of the youth who lay On his dying bed at the close of day.  それから同じくジョン・フォード監督でジョン・ウェイン主演の『駅馬車』『黄色いリボン』などであるが、当時は米国の歴史など知らないので、白人が正義でインディアンが悪であるとばかり思っていた。白人至上主義の勧善懲悪を信じていたのであろう。それから長閑で忘れられないのは、アラン・ラッド主演の『シェーン』である。これらの映画は一九四六年から一九五三年頃にかけて制作されているから、日本での再上映の時に見たものと思われる。   自由の女神

「神秘的体験その2 地上の青黒き王冠たる星空」

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    もう一つの体験は、大学二年生の頃の広島県北の冠高原にある飯山貯水池キャンプ場での星空との出会いである。そこは広島学院のキャンプ地となっており、大学時代は毎夏に幟町教会の十六夜会のメンバーで一泊のキャンプを行っていたところである。昼は冠山に登り、それから飯山でテントを張って、キャンプ・ファイアの準備をし、飯盒飯を食べながらおしゃべりをした後、疲れて皆キャンプ・ファイアの周りに円形になって寝転がった。キャンプ・ファイアの火が小さくなるにしたがって、天空の星の数がいよいよ増えてゆき、銀河が鮮やかに銀色の河となって流れているのが見えてきた。誰かが「ほら流れ星だ」と叫び、目を凝らしていると一分間のうちに流れ星が二、三度はつつぅーと天空をよぎるのが見える。そうして全天空に幾千の宝玉を鏤めたかのごとき星々が、まさに今にも降ってくるかのように近くに迫ってくるのであった。かの時ほど大宇宙の悠久さと神秘さとそして人間存在の卑小さを感じたことはない。そうしてまた人間存在も又この大宇宙の一部にしか過ぎないとも感じた。その卑小なる人間存在が大宇宙という存在を認識できるということの不可思議さ、そしてまた人間存在が大宇宙というマクロ・コスモスを知ると同時に、自らの中にミクロ・コスモスを有していることも、思えば不思議なことである。令和元年(二〇一九年)七月に、かの地上の青黒き王冠たる星空を再度この目で見てみたいと、美ヶ原高原の王ヶ頭ホテルに一泊したが、残念ながら夜は曇っていて、夥しき夜空の星々と大銀河にはまみえることができなかった。    うるはしき星々ひかる 青空の高き丸屋根に  口づけし はげしく泣かん    かの星ら、恋しき人の眼なざしを 天上に千々に播きしか  かがやきて親しげに挨拶す 青空の幕屋より    青空の丸屋根へと 恋しき人の眼なざしへと  われは恭々しく腕を上げ わが願ひ口より流る 「やさしき眼よ、愛のともしびよ わが祈りを嘉したまへ  われを死なしめよ かくておんみらと   おんみらの天の総てを われに與へよ」         ハインリッヒ・ハイネ            「夜の船室にて」 片山敏彦訳 N君実家の庭園

「神秘的体験その1 三段峡の蛍の大群」

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  中学生と高校一年生の時と、二度ほど広島の県北、戸河内にある N 君の実家を訪れたことがあった。二度目の時には B 君、 H 君、 M 君、 T 君と一緒であったが、戸河内から三段峡巡りをした。黒淵を経て二段瀧へ行き、急流の猿飛をロープ船で渡って、二段瀧の勇壮な景観を楽しんで、帰りは荷物と洋服は船に乗せて、水深四、五メートルはあろうかと思われる猿飛を泳いで戻った。    水底の石碧く澄む朱夏の淵  龍次郎    それから三段の滝や聖湖ダムを巡って、その夜は黒淵荘に泊まった。夕食を終え二階の部屋で寛いでいると突然障子が明るくなり、障子を開けて欄干のある廊下に出てみると、まさに雲霞の如き蛍の大群が山荘の欄干すれすれに長い尾を引きながら流れ去ってゆく光景に出会った。射干玉の暗闇の中における蛍の大群の乱舞という大自然の生み出した須臾の美しき光景に、私達は驚嘆すると共に深く感動した。これが私の生涯における最初の神秘的体験である。平成二五年(二〇一三年)の七月に、東京のミニ修道会のメンバーと広島の修道同期の有志、計一二名で三段峡の蛍狩りリユニオンの一泊旅行を行った。三段荘に泊まって橋の上から蛍狩りをしたが、蛍の数は本当に少なくなっていた。そのようにして大変お世話になった畏友 N 君は、 2019 年 12 月 7 日に急逝されたことは,誠に残念であった。もっともっと、人生について N 君と語りたいことは山ほどあった。謹んで哀悼の意を表するものである。 三段峡の黒淵にて

『三太郎の日記』 阿部次郎

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 「 Leben ( 人生)は Prozess der Reinigung (浄化の過程)として初めて意義あり。   Reingung の目標は Das Gute, Das Schön e . (善と美)」           阿部 次郎 『三太郎の日記』   この頃から読書の時に、感銘を受け自分の胸に刻んでおきたいと思う内容の文章に出会ったときには、必ず鉛筆で横線を引きながら読むようになった。そして後から再度その横線部分を読み返すのである。今手元にある『三太郎の日記』を見てみると、購入日は一九六六年八月二六日 金正堂 貳百八拾圓 とあり、大学三年生の時である。この頃に中央公論社より「世界の名著」シリーズが発刊され、その中からかまたは単品で、カント、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、キルケゴール、ニーチェなどを購入したが、そのほとんどすべてを完読できなかったように思う。ただ哲学というものの難解さと人間という存在の不可思議さを多少は理解することができた。  <阿部次郎>  1883年(明治16年)~1959年(昭和34年)山形生れ 大正の教養主義を代表する思想家、評論家。東京大学哲学科でケーベルなどに学び、夏目漱石門に入り森田宗平、安倍能成らと交わる。31歳で『三太郎の日記』を書き、ベスト・セラーとなる。東北大学に招かれ、渡欧。リップス・ニィーチェ・ゲーテなどの研究を紹介し、人格主義の思想を鼓吹した。 小石川植物園

「修道の仲間と広島学院の仲間」

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  高校生頃になって広島学院の同学年の生徒たちも教会に現れるようになった。幟町カトリック教会もイエズス会系カトリックであり、広島学院も同じ系列であったから、彼らの方が教会によりふさわしかったわけであるが、我々修道の仲間は何となく対抗心を持ったのであった。広島学院の生徒たちは我々ダルマ・グループとは異なり、女子高生もメンバーに入れていしころ会というグループを組成した。それに対抗して高校三年生の時には、広島女学院の生徒と一緒に友人宅でクリスマス会を催したこともある。 大学に入ってよりは、ダルマ・グループといしころ会の境界も外れて、広島に残っているメンバーが十六夜会というグループを作って、他の都市の大学に行っているメンバーは休暇の時に集まるという形になって、この会は今でも続いている。 本に関していえば、修道の仲間と広島学院の仲間では読書のレベルに雲泥の差があり、例えば広島学院の仲間は阿部次郎の『三太郎の日記』や、倉田百三の『愛と認識との出発』などについて談論しているのに、我々修道の仲間は全くついてゆけないのであった。これは読書に関する、人生で初めて味わった大きなショックであった。それからは広島学院の仲間たちの読んでいたやや哲学的な、また人生論的な本を、負けじとばかり読み始めたのであった。 縮景園(泉邸)