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「神秘的体験その2 地上の青黒き王冠たる星空」

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    もう一つの体験は、大学二年生の頃の広島県北の冠高原にある飯山貯水池キャンプ場での星空との出会いである。そこは広島学院のキャンプ地となっており、大学時代は毎夏に幟町教会の十六夜会のメンバーで一泊のキャンプを行っていたところである。昼は冠山に登り、それから飯山でテントを張って、キャンプ・ファイアの準備をし、飯盒飯を食べながらおしゃべりをした後、疲れて皆キャンプ・ファイアの周りに円形になって寝転がった。キャンプ・ファイアの火が小さくなるにしたがって、天空の星の数がいよいよ増えてゆき、銀河が鮮やかに銀色の河となって流れているのが見えてきた。誰かが「ほら流れ星だ」と叫び、目を凝らしていると一分間のうちに流れ星が二、三度はつつぅーと天空をよぎるのが見える。そうして全天空に幾千の宝玉を鏤めたかのごとき星々が、まさに今にも降ってくるかのように近くに迫ってくるのであった。かの時ほど大宇宙の悠久さと神秘さとそして人間存在の卑小さを感じたことはない。そうしてまた人間存在も又この大宇宙の一部にしか過ぎないとも感じた。その卑小なる人間存在が大宇宙という存在を認識できるということの不可思議さ、そしてまた人間存在が大宇宙というマクロ・コスモスを知ると同時に、自らの中にミクロ・コスモスを有していることも、思えば不思議なことである。令和元年(二〇一九年)七月に、かの地上の青黒き王冠たる星空を再度この目で見てみたいと、美ヶ原高原の王ヶ頭ホテルに一泊したが、残念ながら夜は曇っていて、夥しき夜空の星々と大銀河にはまみえることができなかった。    うるはしき星々ひかる 青空の高き丸屋根に  口づけし はげしく泣かん    かの星ら、恋しき人の眼なざしを 天上に千々に播きしか  かがやきて親しげに挨拶す 青空の幕屋より    青空の丸屋根へと 恋しき人の眼なざしへと  われは恭々しく腕を上げ わが願ひ口より流る 「やさしき眼よ、愛のともしびよ わが祈りを嘉したまへ  われを死なしめよ かくておんみらと   おんみらの天の総てを われに與へよ」         ハインリッヒ・ハイネ            「夜の船室にて」 片山敏彦訳 N君実家の庭園

「神秘的体験その1 三段峡の蛍の大群」

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  中学生と高校一年生の時と、二度ほど広島の県北、戸河内にある N 君の実家を訪れたことがあった。二度目の時には B 君、 H 君、 M 君、 T 君と一緒であったが、戸河内から三段峡巡りをした。黒淵を経て二段瀧へ行き、急流の猿飛をロープ船で渡って、二段瀧の勇壮な景観を楽しんで、帰りは荷物と洋服は船に乗せて、水深四、五メートルはあろうかと思われる猿飛を泳いで戻った。    水底の石碧く澄む朱夏の淵  龍次郎    それから三段の滝や聖湖ダムを巡って、その夜は黒淵荘に泊まった。夕食を終え二階の部屋で寛いでいると突然障子が明るくなり、障子を開けて欄干のある廊下に出てみると、まさに雲霞の如き蛍の大群が山荘の欄干すれすれに長い尾を引きながら流れ去ってゆく光景に出会った。射干玉の暗闇の中における蛍の大群の乱舞という大自然の生み出した須臾の美しき光景に、私達は驚嘆すると共に深く感動した。これが私の生涯における最初の神秘的体験である。平成二五年(二〇一三年)の七月に、東京のミニ修道会のメンバーと広島の修道同期の有志、計一二名で三段峡の蛍狩りリユニオンの一泊旅行を行った。三段荘に泊まって橋の上から蛍狩りをしたが、蛍の数は本当に少なくなっていた。そのようにして大変お世話になった畏友 N 君は、 2019 年 12 月 7 日に急逝されたことは,誠に残念であった。もっともっと、人生について N 君と語りたいことは山ほどあった。謹んで哀悼の意を表するものである。 三段峡の黒淵にて

『三太郎の日記』 阿部次郎

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 「 Leben ( 人生)は Prozess der Reinigung (浄化の過程)として初めて意義あり。   Reingung の目標は Das Gute, Das Schön e . (善と美)」           阿部 次郎 『三太郎の日記』   この頃から読書の時に、感銘を受け自分の胸に刻んでおきたいと思う内容の文章に出会ったときには、必ず鉛筆で横線を引きながら読むようになった。そして後から再度その横線部分を読み返すのである。今手元にある『三太郎の日記』を見てみると、購入日は一九六六年八月二六日 金正堂 貳百八拾圓 とあり、大学三年生の時である。この頃に中央公論社より「世界の名著」シリーズが発刊され、その中からかまたは単品で、カント、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、キルケゴール、ニーチェなどを購入したが、そのほとんどすべてを完読できなかったように思う。ただ哲学というものの難解さと人間という存在の不可思議さを多少は理解することができた。  <阿部次郎>  1883年(明治16年)~1959年(昭和34年)山形生れ 大正の教養主義を代表する思想家、評論家。東京大学哲学科でケーベルなどに学び、夏目漱石門に入り森田宗平、安倍能成らと交わる。31歳で『三太郎の日記』を書き、ベスト・セラーとなる。東北大学に招かれ、渡欧。リップス・ニィーチェ・ゲーテなどの研究を紹介し、人格主義の思想を鼓吹した。 小石川植物園

「修道の仲間と広島学院の仲間」

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  高校生頃になって広島学院の同学年の生徒たちも教会に現れるようになった。幟町カトリック教会もイエズス会系カトリックであり、広島学院も同じ系列であったから、彼らの方が教会によりふさわしかったわけであるが、我々修道の仲間は何となく対抗心を持ったのであった。広島学院の生徒たちは我々ダルマ・グループとは異なり、女子高生もメンバーに入れていしころ会というグループを組成した。それに対抗して高校三年生の時には、広島女学院の生徒と一緒に友人宅でクリスマス会を催したこともある。 大学に入ってよりは、ダルマ・グループといしころ会の境界も外れて、広島に残っているメンバーが十六夜会というグループを作って、他の都市の大学に行っているメンバーは休暇の時に集まるという形になって、この会は今でも続いている。 本に関していえば、修道の仲間と広島学院の仲間では読書のレベルに雲泥の差があり、例えば広島学院の仲間は阿部次郎の『三太郎の日記』や、倉田百三の『愛と認識との出発』などについて談論しているのに、我々修道の仲間は全くついてゆけないのであった。これは読書に関する、人生で初めて味わった大きなショックであった。それからは広島学院の仲間たちの読んでいたやや哲学的な、また人生論的な本を、負けじとばかり読み始めたのであった。 縮景園(泉邸)

「ダルマ・グループ」

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修道中学校では三年間を通して、三組の同じクラス・メイトと一緒であった。高校に上がるとクラスは毎年変わったが、受験コースにより授業はバラバラで受けたのであまり同クラスという感覚はなかった。  中学一年生の時に卓球部に入部したが、中学・高校を通して卓球台が二台しかなく、特に一年生はランニングと素振りばかりやらされたので面白くなく、辞めて書道部に入った。しかし卓球そのものは好きであったので、クラス対抗のメンバーとして卓球場で練習したが、幟町カトリック教会では無料で卓球台を使えることを兄より聞いて、教会を訪れた。一緒に行ったのは席順も近く自転車通学の O 君、 K 君、 S 君達だったと記憶している。卓球台の小部屋がありそこで練習をした後、司祭館で神父に挨拶をした。スペイン人の S 神父から卓球台を使ってよいこと、友人を一〇名くらい連れてくれば、英語を教えてあげることなどの話があり、自転車で通学している友人に声掛けをして、学校の終了後は、幟町教会に自転車を連ねてよく遊びに行くようになった。これがカトリック教会やその付属の聖母幼稚園の人達との邂逅の契機となったのである。  教会に遊びに行くメンバーもほぼ固まり、他の学校のメンバーも入れてグループ名をダルマ・グループと名付けた。教会のグループに仏教の達磨大師の名前を冠するのもおかしな話であるが、「七転び八起きの精神」を尊んで命名されたのであった。   縮景園(泉邸)

『反橋』『しぐれ』『住吉』の小編三編  川端康成

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 この川端康成集で印象的なのは、いずれも「あなたはいまどこにおいでなのでしょうか」で始まる『反橋』『しぐれ』『住吉』の小編三編である。この三編に通底しているものは、『住吉物語』や和歌などの王朝文化であり、東山文化、連歌・俳諧や文人画であるが、「近代の魂の病から出発したような」スウチンそしてアルブレヒト・デュウラアという西洋画も取り上げている。この三編に取り上げられていることは、ノーベル文学賞記念講演の『美しい日本の私』の基礎になっていると思うが、その講演内容には日本の文化にとって重要な位置を占めている芭蕉の名前がないのは不思議である。一方『しぐれ』には芭蕉の次の文章が引用されている。   「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり」                芭蕉 『笈の小文』    また『美しい日本の私』の中では、「日本美術の特質」の一つを「雪月花の時、最も友を思ふ」という白楽天の詩語に約められるとした矢代幸雄の文章を紹介している。日本美とは四季折々の自然の美しさに没入し、合一することであると、川端は考えていたのである。 「雪月花の時、最も友を思ふ」  白楽天 THE TIME OF THE SNOWS, OF THE MOON, OF THE BLOSSOMS - THEN MORE THAN EVER WE THINK OF OUR COMRADES. 洛北 原谷苑

『美しい日本の私-その序説』 川端康成

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  旧富士銀行へ就職した昭和四三年(一九六八年)の一二月に、川端康成はノーベル賞の受賞講演会で『美しい日本の私-その序説』( Japan, the Beautiful, and Myself )を講話している。大東亜戦争での大敗後の国の復興が成り、高度成長時代が始まりだした時期に、日本古来の美と文化と伝統を世界に向けて発信することは大きな意義のあることであった。講話の冒頭に道元禅師の和歌を載せたことも、次のことを意識してこその故であった。すなわち、日本人は四季折々の雪月花の美に触れながら、自然と融合して「もののあはれ」を感じながら生きるという死生観を有していること。そして日本人の無常観とは虚無ということではなく、禅の無一物つまり無尽蔵につながるものであることを、強く印象付けるものとなっている。 「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり  道元禅師」   IN THE SPRING, CHERRY BLOSSAMS,    IN THE SUMMER THE CUCKOO,    IN AUTUMN THE MOON, AND IN    WINTER THE SNOW, CLEAR, COLD.   川端康成に関しては、『伊豆の踊子』爽やかな青春ものであるが、『雪国』『みずうみ』 『千羽鶴』『眠れる美女』は、大人向けの文学である。にもかかわらずその非倫理性をあまり気にすることなく、川端の文学性を理解しえたのは幸せであった。当時は日本文学集や世界文学集そして哲学論文集の流行した時代であったが、今手元にあるのは『日本の文学 38』「川端康成」中央公論社で、昭和三九年二月二十五日初版印刷の第二版である。価格はなんと三九〇円となっている。 永観堂の紅葉