「ボストンへの旅」

 一九七六年の一月一九日に長男が生まれた。長男の誕生に際しては色々な人からお祝いの品を頂いたが、I家から頂いたピーター・ラビットのぬいぐるみと、I家から頂いたプラスチック製のロコモーティフは今でも残っており、ロコモーティフの方は四人の孫たちがいまでもねじを巻いて動かして、遊んでいる。四月にはライ・ビーチへ連れて行ったが、もう泳いでいる人たちがいるのには驚いた。ゴルフはMAPLE MORE GOLF COURSEにウェストチェスターの同僚たちとよく出かけた。自宅のすぐそばのBRONX RIVER PARKWAYには長男を連れてよく遊びに行ったが、新婚さんの写真を写す格好の場所でもあった。

 五月にはボストンに行った。長男はまだ四ヶ月であり、自動車用のクリブに乗せて連れて行ったが、クーラーがないので暑くて大変であった。OLD STATE HOUSE、マサチューセッツ州議会議事堂、ジョージア王朝風のパーク通り教会、キングス・チャペル(英国国教会)、旧市庁舎とベンジャミン・フランクリン像などを見て回り、それからボストン美術館へ行った。当時の私の西洋美術認識は印象派の域を出ていなかったので、印象派の絵画ばかりを見ていた。ボストン美術館は、二〇世紀までのアメリカンアートとヨーロッパ印象派、ポスト印象派の作品、それにエジプト美術が特に充実しているとのことであったが、記憶に残っているのは印象派の作品と東洋美術の浮世絵の作品であった。印象派及び後期印象派の作品で有名なものは下記の通りである。

クロード・モネ      『着物をまとうカミーユ・モネ』 一八七五-七六年

             『ルーアン大聖堂(太陽の効果)』 一八九四年

             『ルーアン大聖堂(正面・夜明け)』 一八九四年

             『睡蓮』 一九〇五年

メアリー・カセット    『座敷席にて』 一八七八年

ピエール=オーギュスト・ルノワール    『ブージヴァルのダンス』 一八八三年

フィンセント・ファン・ゴッホ   『郵便配達人ジョセフ・ルーラン』 一八八八年

ポール・ゴーギャン    『我々は何処から来たのか、我々は何者か、

              我々は何処へ行くのか』 一八九七—九八年

  上記の中では写真に撮っている所為もあるが、ゴーギャンのタヒチでの絵画である『D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?』が特に印象深い。横に長い大きな絵画であり、タヒチの風景の中にタヒチの女たちが大勢描かれていて、右端の幼児から左端の老婆まで、人の一生が描かれている。絵画の題名の方も、また長くて哲学的な名前であり、これを見た人は一生忘れないであろう絵画であると言える。

 それ以外に衝撃を受けたのは、浮世絵のコレクションの多さであった。日本美術に造詣が深いアーネスト・フェロノサがボストン美術館の日本部(後に東洋部)の初代部長となったのは、日本政府の依頼を受けて、日本の美術品や秘仏を再発掘して帰国した後のことであった。奈良では、岡倉天心を従えて、法隆寺の秘仏・夢殿観音や聖林寺の秘仏・十一面観音菩薩の禁を解かせて、調査をしたことはよく知られている。フェノロサは廃れようとしていた日本美術や仏像を、再評価して保存を促してくれた日本文化保存の恩人であると言える。岡倉天心も後に同美術館の東洋部長となっている。

 翌日は世界で最初の戦闘艦と言われるUSS コンスティテューション号を見学に行き、それからプリマスに向かって、メイ・フラワー二世号やピルグリムたちが最初に上陸したときに踏んだ岩と言われるプリマス・ロックを見て回った。因みにUSSUNITED STATES SHIPつまり米海軍艦船の艦船接頭辞を意味するそうである。ボストンで食べたシーフードは、特にニュー・イングランド・クラム・チャウダーが美味しく感じられ、ニューヨークに戻っても、時々キャンベルの缶詰でニュー・イングランド・クラム・チャウダーを作ってもらっていた記憶がある。

メイ・フラワー二世号(Boston)


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