「一九八三年から一九八七年までの読書」 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 1月 04, 2021 名古屋の柳橋支店勤務開始の一九八三年一〇月から、目黒支店勤務終了の一九八七年五月までの読書は、支店勤務で多忙であったせいか、本当に少ない。 『正法現蔵随聞記』 懐奘編 和辻哲郎校訂 『峠』 司馬 遼太郎 『すこし枯れた話』 高橋義孝 『旅のなか』 立原正秋 『旅の余白』 吉村貞司 『花と風』 秦恒平 『愛の試み』 福永 武彦 『ノルウェイの森』 村上 春樹 若狭 三方五湖 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ コメント
『かくれ里』 白洲正子 「神子の山桜」 12月 28, 2020 これは随分後の話となるが、平成一三年頃に白洲正子の『かくれ里』を読んでいる時、「神子の山桜」の章に区長として義父の名前が登場していたのであった。たまたま我が家でお正月休みを過ごしていた義母に「昭和三九年頃に白洲正子が神子に来て、亡くなった義父が神子の山桜を白洲正子に案内したそうだけど覚えているか」と聞いてみたが、「さあそういえば何か偉い人が来たようなことがあった」と、曖昧な返事であった。 「若狭のどこかに『神子ざくら』といって、大そうきれいな花があることを聞いていたが、へんぴな所らしく、京都でたずねてみても誰も知っている人はいない。仕方なしに、東京の編集者さんにしらべて貰うと、それは敦賀と小浜の間につき出た、常神半島の一角にある、神子部落という村で、桜は満開だから、今日明日にも来い、ということである。電話に出たのは、その村の区長さんで、京都からくるなら、車の方がいい、敦賀に出て、国道を西へ行くと、三方という町がある、そこで聞けばわかると、ことこまやかに教えて下さった。」 「神子に近づくにしたがい、大木の桜があちらこちらに見えはじめ、塩坂、遊子、小川を過ぎ、最後の岬を回ったとたん、山から下の浜へかけて、いっきに崩れ落ちる花の滝が現出した。人に聞くまでもなく、それが名におう『神子ざくら』であった。」 「嘗ての嵐山も、ほぼこれに近い盛観だったのではあるまいか。区長さんに伺ったところによると、この桜は観賞用に植えたものではなく、ころび(桐実と書く、油をとる木)の畑の境界に植えたものとかで、村人の生活と結びついていたために、手入れもよく行きとどいた。そういわれてみると、やや正確な井桁模様に咲いており、そういう風習がなくなった今日、保って行くのは大変なことではないかと思う。 神子は古く『御賀尾』と書き、それがつまってミコと呼ばれるようになったと聞く。だが、古い歴史を持つ土地がらであってみれば、必ず神様と関係があったに違いない。」 白洲 正子 『かくれ里』 「花をもとめて」 神子桜 続きを読む
「一九六八年から一九七三年の間の読書」 12月 28, 2020 富士銀行広島支店と大阪外国事務課の在勤中は、あまり沢山の読書はしていない。社会人となって覚えなければいけないことが多かったからである。 『草の花』 『風土』 福永武彦 『友情論』 ボナール 『田園交響曲』 アンドレ・ジイド 『人間について』 ボーボワール 『誘惑者の日記』 キルケゴール 『月の光』 井上靖 『掌の小説』 『虹いくたび』 『日も月も』 『女であること』 『 舞姫』 『古都』 川端康成 『私の人生観』 小林秀雄 『今ひとたびの』 高見順 『新聖書講義』 河上徹太郎 『二十歳のエチュード』 原口統三 これ以外にも読書したのであろうが、今残っている文庫本を調べてみると上述の本しか残っていない。 足立美術館 続きを読む
「愛と感謝とで」(ノートの一つ目) 12月 26, 2020 愛と感謝とでこの世を見る時は この世は 美しいものだらけだ。 そして死ぬことも美しいのだ ありがたいことだ。 武者小路 実篤 実篤はその詩集のいたるところで、人生の美と愛と歓喜について謳っている。彼がその思想を培った時代には人道主義が隆盛期であったこと、また彼自身がトルストイなどの影響のもとに白樺派に属していたということ、そのことが彼を人生の讃美者となさしめたのであろう。貴族の門に生れ生活の苦労を知らぬ彼にして、この麗しい人生肯定の詩が産まれたことは否めない。でもそれだけであろうか。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。キルケゴールに始まる実存主義は死の不安を説き、人生の暗さを訴えた。サルトルは人生に嘔吐感を抱き、カミュは人生における不条理性を述べた。彼らは人生を肯定したいと願いながら、結局は人生の否定的側面の虜となってしまったように思える。そして現代の思潮は主として人生の否定的側面にあるようである。彼らにとってみれば、人生は素朴に肯定できるものではないかもしれない。だが、今夜のように円かな秋の月が、レースのカーテンを透してその光を静かに部屋に投げかけている時、我々人間はその光景の美しさに、世界の壮麗さに心打たれずにいられない。生きることを愛さずにはいられない。 こよい又おんみはおぼろの光もて しげみを谷をみたし かくてわがこころも ついにのこるところなく融けひろがる ゲーテ 「月に」 実篤は人間に与えられたもので善でないものはないと言う。人間が悪だと思うものも本当は悪ではなくて、それは阿片のように人間がその程度を知らずに使用するので麻薬性を持つのであり、適度に使用すればそれは薬となるものであるという考えである。アウグスティヌスもその『告白』において、人間は神によって創られたものであるから、その性はすべからく善であり悪は存在しないと言っている。悪というのは実在するものではなくて、それは善の欠如だと書いている。そうなるとヘッセの『デミアン』に出てくるアプラクサスのように、善と悪の両者を有する神は自己消滅してしまうことになる。 亀井勝一郎は、人間は死に向かって生きていると言う。そしてその死がロシア系ユダヤ人の哲学者であるシェストフの言うように 続きを読む
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