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「友人たちの来港」

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  一九九〇年三月には、 S 家四人が来港し、夕食を共にして、我が家にも遊びに来た。また大阪の妻の従弟である H 君も遊びにやってきた。 A 姉も娘の H ちゃんを連れて来港している。 そして八月の二日から六日にかけて、十六夜会の広島のメンバーと聖母幼稚園の先生お二人がやってきた。 M 先生、 Y 先生 、 K 君 、 K 君 、 S 君の五人でツァーに乗ってドラドン・エアー(港龍航空)でやってきた。 三日はツァーで赤松黄仙洞、飲茶、女人街、金銀宝飾店、ブランド店を周り、妻と圭が合流して、夕食は飲茶料理を食べている。その後はブレ―マー・ヒルズの我が家に来て、色々なお酒を飲みながら歓談した。 四日はマカオ・ツァーである。聖ポール天主堂跡、ホテル・リスボア、中国庭園と邸宅で剣劇や曲芸を楽しむ。それからホテルで歓談。 五日はまたブランド店で買い物、飲茶、オーシャン・パーク、地下鉄、そしてまた買い物、二階建て電車、ランド・マーク、妻と圭と合流して夕食、その後リージェント・ホテルで香港島の夜景を見ながら、お酒と談話を楽しんだ。 ニューヨークにいた頃には飛行機代も高く、友人は小学校のクラス・メイトがビジネス旅行で訪れたことがあったが、香港は日本からも近く友人たちが沢山訪れてくれて、楽しんで帰ってくれたと思う。 香港の社宅にて

「プーケット」

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  次の年、一九八九年の一二月にはタイのプーケットに行った。やはり二泊で泊ったのはメリディアン・ホテルだったと思う。ここでは次男の小学校の女子クラス・メイトの家族と一緒に島で泳いで、プーケットの街で夕食を食べた記憶がある。南海のリゾートでのクリスマスを楽しんだ。 プーケット

「コタキナバル」

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  南のリゾート地には、いずれも一二月に二度行っている。最初が一九八八年の一二月のコタキナバルである。ノースポイントから啓徳空港へフェリーで行き、そこからコタキナバルの空港に直行便であったと思う。ホテルはタンジュン・アル・ビーチ・ホテルで二泊であった。中の一日は、船で一時間位かかるサピ島に行ったが、サンゴ礁の奇麗な小島で、ビーチは貸し切り状態であった。ガーデン・プールやテニスを楽しんだ。 コタキナバル

「パリの観光」

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  翌日はバスで市内観光。エッフェル塔とノートルダム寺院を周り、オペラ座で解散。オルセー美術館へ行くも、月曜日でしまっていたのは残念。お昼はひぐまラーメン。午後はルーブル美術館で「ミロのヴィーナス」と「モナ・リザ」を見る。その後エッフェル塔にまた行って、エレベーターで一階層まで登る。夕食はまつだ寿司。美味い。 翌朝はグローバスの見送りをして、シャルル・ド・ゴール空港から帰りはエール・フランス。ボンベイとバンコックで給油して、一八時間かけて啓徳空港へ。 オルセー美術館

「フォンテンブローの宮殿」

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次の日はバーゼルでフランスに入り、ブザンソンを経て、パリに近づく。フォンテンブローの宮殿を見て、パリに入都。ホテルは新都心のラ・ディファンスにある。モンマルトルのレストランで夕食。 フォンテンブローの宮殿

「ルツェルンのナイト・ボート」

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  翌朝はバスで市内観光。ライオン岩を見る。それからピラトス山に登山電車で登るが霧雨の中で景観は何も見えない。その後のショッピングで、記念となるオルゴールを購入。夜はナイト・ボートに乗り、ヨーデルを聴く。 ルツェルンのナイト・ボート・ショウ

「ゴッタルト峠」

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  翌日はベニスからベローナ、ミラノを経由してスイスへ向かう。コモで国境を越え、ルガノで昼食、ゴッタルド峠を越える。湖に面した観光の街ルツェルンに入る。 ゴッタルト峠のスイス平氏

「ヴェニス サンマルコ広場」

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朝食後、サン・マルコ広場に行く。サン・マルコ寺院とドゥカーレ宮殿を拝観する。ベネティアン・グラスの工場も見学する。午後はラグーン(潟)・クルーズ。夕食後、水上タクシーでオペレッタへ行き、カンツォーネを聴く。 ヴェニス サンマルコ広場  

「ヴェニスのゴンドラ」

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  そしてベニスへの道を電車と並行して走って、ベニスに到着する。運河に沿ったホテルのレストランで夕食。その後ゴンドラに乗る。 ヴェニスのゴンドラ

「ザルツブルク モーツァルトの生家」

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メリーランドのコロンビアからきているS & M夫妻とバスの席が前後となり、仲良くなる。ミュンヘンは戦災で焼失したため、町全体が新しい感じがする。バイエルンの王宮を見る。ミュンヘンからは、オーストリアの塩の城ザルツブルグへ向かう。七〇〇年頃にできたこの街は大司教座でホーエン・ザルツブルグ城がその居城である。モーツァルトの生家とバロック建築のザンクト・ペーター教会を見る。 翌朝にはザルツブルグの旧市街で買い物をして、ベニスへ向かう。途中の山道はまさにチロルの絵葉書の世界である。その中にあるレストランで昼食を摂る。   モーツァルトの生家

「ハイデルベルクからミュンヘンへ」

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翌朝ハイデルベルク城を訪れる。『アルト・ハイデルベルク』に登場するネッカー河は緑濃かった。次いでバスはアウトバーンを高速で飛ばしながら、シュタットガルト、アウグスブルグ経由ミュンヘンへ向かう。 ハイデルベルク城からネッカー川を望む  

「アムステルダムからケルンへ」

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  翌日はユトレヒトやアーヘンを経由してドイツへ入国。パスポートの提示無し。バスはエッセン、ドルトムントを中心とするルール工業地帯を抜けて、一路ケルンへ。一二四八年着工以来六百年かかつて一八八〇年に刊行されたネオ・ゴシックのケルン大聖堂を拝観する。首都のボンを経て、ライン河下りに乗船。下船して、ハイデルベルクへ。 ケルン大聖堂

「船でオランダへ」

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  ツアー・バスで、ノボテルを出てロンドンよりハーウィック港へ午後八時前に着く。三万五千トンの船でオランダへ。船中泊。オランダについてマルケン島で風車の地区などを観光する。フォレンダムでシーフードを食べて、アムステルダムへ。遊覧船ののち国立美術館でレンブラントの『夜警』とフェルメールの『牛乳を注ぐ女』を見る。その後はダイヤモンド工場へ。 オランダの風車

「初めての欧州旅行 ロンドン」

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  一九八八年の七月には、富士銀行の仲間家族で西貢へのクルージングと海水浴を楽しんだ。また広島県人会でも香港島周辺の夕景色クルージングに参加した。 八月には家族四人で初めてのヨーロッパ旅行へ参加した。啓徳空港からブリティッシュ・エアウェイズの飛行機に乗り、南回りでロンドンのヒースロー空港まで飛ぶ。途中の給油を入れて、一四時間は長かった。観光バス一時間半のコースに乗る。著名な観光名所を周る。午後はボンド・ストリートを見て、王立美術館を拝観した。 London Bridge

「香港へ来遊された方々」

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最初に親戚・知人で香港に来遊したのは、妻の両親と義妹とその息子のM君であった。一九八八年の二月である。一週間近く滞在したが、その間ニュー・テリトリーのロクマチャウから中国本土を見て、その後レイユームンで海鮮料理を食べ、静松観の寺院を観光する一日や、マカオにジェットホイルで行き、ミニバス観光で古寺院、聖ポール天主堂跡、ポルトガル料理などを愉しんだ一日など、香港市街での買い物や食事なども含めて、楽しんで頂いた。また丁度旧正月の時期にあたり、マーケティング部門の現地行員とその家族を我が家に招待し、食事のあとトランプやマージャンで遊んだが、義父は大きめの広東牌の香港式マージャンを観戦するだけで覚えて、最終的には勝ちマージャンを打ったのは、流石であった。 同じ二月に義兄のN家のT君が来港した。香港島の南東にあるスタンレー・マーケット、大丸、飲茶、女人街、ペニンシュラのエルメスでのスカーフ購入を楽しんで帰った。 一九八八年九月にはN家のM君が自分の歯科医院の技工士、看護婦を連れて来港。歯科治療剤を購入し、香港観光をして帰国した。同じ月に広島の父母、四番目の姉とその長男T君が来港。約一週間滞在した。ペニンシュラ・ホテルの喫茶、シェラトン・ホテルの日本料理・雲海、中華百貨店、ホープウェル・センターのレボルビング六六、タイガーバウム公園、ビクトリア・ピーク、アバディーン、レパルス・ベイ、スタンレー・マーケット、ジャスコ、香港の地下鉄、カオルーン・クラブなどを案内して、父は書画用の筆や墨を沢山仕入れて満足して帰国した。翌月の一〇月には、銀行の業務で S さんが取引先と一緒に来港、 O さんにお仕えしたこともあり、旧交をご一緒に温めた。 S さんは、もう一度業務で来港されている。 又大阪外事でお仕えした K さんや京阪神サッカー部でお世話になった K さんも、 O さん共々歓待し、広島支店でお仕えした K さん、本店営業部時代の N さん、目黒支店時代の A さん、その他多くの銀行の先輩や同輩、学生時代の友人などが来遊しに来た。   旧正月の自宅でのパーティ

「マーケティング部門で」

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  香港在勤で一番充実し楽しかったのは一九八七年一二月からのマーケティング部門担当の二年半であった。一九八八年二月には最大の取引先である K 社の役員と共に販売先の汕頭を O 副董事長と共に訪問した。そして廣安銀行と富士銀行との合弁二〇周年記念パーティ、毎旧正月における百近くのテーブルに顧客を招待してのスプリング・ディナー、我が家にマーケティング部門のメンバーと家族を招待しての旧正月の接待。オーナー役員とのタイへのビジネス旅行、マーケティング部門の上海蟹パーティ、行内サッカー大会での優勝、ドラゴン・ボートの応援、マカオ・広州・東莞への工場見学を兼ねたビジネス旅行など、思い出は数えればきりがない。 歴史的な事件としては、何といっても一九八九年六月四日の天安門事件であった。 Spring Dinner

「香港での勤務」

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二度目の海外勤務となった。一九八七年五月に、まずは引継の為に一週間香港へ出向いた。啓徳空港が近づき、町の家並みがはっきりとわかるようになる。まさに印象は雑然とした街だ。一階が商店街で二階以上が住居階となっているらしいビルが多く、そのほとんどが窓から洗濯物を吊り下げている。 出向先の廣安銀行は地場銀行であり、セントラル地区の中央市場のそばにその本店があった。私の担当業務は当初はコーポレイト・プラニング部であったが、後にマーケティング部、そして審査・国際部門と三つの協理( CHIEF MANAGER )を担当した。 住居は日本人学校から近い塞西湖(チョイサイウー)の寶馬山道(ボウマーサントウ)にあるブレーマー・ヒルズという高層マンションである。マンションは三十七号棟(サムサップチャホウ)であり、その二〇階の B 室が我が家であった。 啓徳空港を見下ろす リビングルームのテラスからは、正面真下に啓徳空港を見下ろすことができ、飛行機の発着するのが見えた。眺望は素晴らしかった。 

「言葉のオアシス その2」

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<一九八三年一〇月から、一九八七年五月までの読書>  「学道の人は人情を棄べきなり。人情を棄ると云ふは、佛法に随ひ行くなり。」 「玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁となる。いづれの玉か初より光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し錬磨すべし。」           道元禅師 懐奘編 和辻哲郎校訂 『正法眼蔵随聞記』   「学問の道は気質の陶冶にあり。知識の収集にあるのではない。」          司馬遼太郎  『峠』   「一切は変化し流転してやまぬ。われわれはこの永遠の流転の中にあって、何か流転しないもの、動かないもの、常住静かに渝ることなく存在するものを無意識に求めているのではないか。」 「非常に美しいものは、必ずわれわれを讃嘆のあまり沈黙させずにはおかぬということを忘れてはならぬ。」           高橋 義孝  『すこし枯れた話』  「光を所有することで自己を改造したいという欲望。それが愛である。」 「愛が人生に豊かな収穫を与えるためには、その愛が理性に耐えうるもの、そして時間に耐えうるものでなくてはならぬ。」             福永 武彦   『愛の試み』 スクロヴェーニ礼拝堂 パドヴァ (大塚国際美術館)

「一九八三年から一九八七年までの読書」

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名古屋の柳橋支店勤務開始の一九八三年一〇月から、目黒支店勤務終了の一九八七年五月までの読書は、支店勤務で多忙であったせいか、本当に少ない。 『正法現蔵随聞記』 懐奘編 和辻哲郎校訂  『峠』       司馬 遼太郎 『すこし枯れた話』    高橋義孝     『旅のなか』    立原正秋 『旅の余白』    吉村貞司        『花と風』     秦恒平 『愛の試み』    福永 武彦       『ノルウェイの森』 村上 春樹   若狭 三方五湖

「目黒から香港へ」

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一九八五年一一月に名古屋の柳橋支店から目黒支店へと転勤となった。 K 支店長に半年ばかりお仕えし、一九八七年四月の転勤までは A 支店長にお仕えした。時は不動産バブルの真最中であり、多忙なうちに一年半が過ぎた。思い出としては、行内旅行で中尊寺や厳美渓に行ったことや、クリスマス・パーティなどがある。 一九八六年三月には、 K 家で四家族親子全員集まってのオーク・ヒル会を開いた。八月には軽井沢の保養寮に遊び、また同月に広島の父母と鴨川への一泊旅行を楽しんでいる。一九八七年三月には浦安にディズニー・ランドが開園し、市民デイには家族全員で朝から夜の花火までまる一日遊興した。   そして海外への内示があり、香港の合弁銀行への出向であった。   鴨川グランド・ホテル