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「映画音楽について」

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  映画と言えば邦画ではなく洋画であったことはすでに述べたが、映画音楽と言えば洋画のテーマとなった音楽であった。兄が『スクリーン』という月刊誌や『月刊 映画音楽』を購入していた影響もありよく聞いていた。今でも手元にそのシートが数枚入っているその雑誌が残っている。昭和三十五年(一九六〇 年)代を中心に、記憶にある有名な映画音楽をあげると、『エデンの東』のテーマ、『慕情』の「 Love is a many splendored thing 」、『太陽がいっぱい』のテーマ、『ティファニーで朝食を』の「 Moon River 」、『激しい季節』の「 Temptation 」、『刑事』の「 Sinno’Me Moro (死ぬほど愛して)」、『ブーベの恋人』のテーマ、『愛情物語』の「 To Love Again 」、『真昼の決闘』の「 High Noon 」、『ひまわり』のテーマ、『シェルブールの雨傘』の主題歌、『男と女』のテーマ、『卒業』の「 Sound of Silence 」、そしてレナード・バーンスタイン作曲の『ウェスト・サイド・ストーリー』の「 Tonight 」、「 Maria 」、「 Cool 」を始めとする名曲の数々。これらの映画の中で印象に残っている女優としては、すでに名前を挙げた女優を除けば『激しい季節』のエレオノラ・ロッシ・ドラーゴの美しさと女の命の激しさ、そして『ブーベの恋人』のクラウディオ・カルディナーレの個性的な美とアンニュイな女らしさであろうか。  一九六〇年代まではかなり流行していた音楽のジャンルで、今は流行っていないものとしては、シャンソン、カンツォーネ、コンチネンタル・タンゴ、ボサノバなどがあげられる。そうして洋画においても、当時はフランス映画やイタリア映画がかなり日本にも入ってきており、どちらかというと米国映画より質の高いものが多かったが、今では世界中がハリウッド映画に征服されたかのようである。邦画と日本のアニメ映画、邦楽そして J ポップスなどが日本やアジアにおいて流行していることは、ありがたいことだと思う。 マンハッタンの南端

「洋画 『草原の輝き』など」

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高校生時代に記憶に残っている西部劇映画はジョン・ウェイン監督・主演の『アラモ』、スティーブ・マックイーンが若々しかった『荒野の七人』などである。マックイーンはテレビ番組の『拳銃無宿( WANTED DEAD OR ALIVE )』でも有名であった。  大学生になってからは憧れの女優であったナタリー・ウッド、ウォーレン・ビーティ主演の『草原の輝き』、同じくナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ジョージ・チャキリス、リタ・モレノが演じた作曲レナード・バーンスタイン、監督ロバート・ワイズ、振付ジェローム・ロビンスの『ウェスト・サイド・ストーリー』は三回ほど見た。後にニューヨーク勤務となった折に、ウェスト・サイド地区の恐ろしさを知ることとなった。  大学四年生かもしくは銀行に入った頃に見た映画で印象的なのは、リュドミラ・サベリーエワの『戦争と平和』、そして『ひまわり』である。『ひまわり』の方はソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニが共演であったが、ロシア人女優での最高の華はリュドミラ・サベリーエワではなかろうか。『男と女』のアヌーク・エメも色っぽかったが、アニエス・ヴァルダ監督の『幸福』を演じたマリー・フランス・ボワイエもしっとりとした清楚な美しさを持った女優であった。   Splendor in the Grass William Wordsworth Though nothing can bring back the hour  of splendor in the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind. 草原の輝き ウイリアム・ワーズワース 翻訳:高瀬鎮夫(たかせしずお) 草原の輝き 花の栄光 再びそれは還(かえ)らずとも なげくなかれ その奥に秘められたる力を見い出すべし シカゴの夕焼け

「洋画 『誰がために鐘は鳴る』など」

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映画の製作年は前後するが、マーガレット・ミッチェル原作でヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル主演の『風と共に去りぬ』、ゲイリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演の『誰が為に鐘は鳴る』、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』、オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック主演の『ローマの休日』などは、もう高校生になってから、試験の終わった後などに観覧した記憶がある。中間試験や期末試験が終わると自転車を連ねて映画館に通ったものである。    No man is an island, Entire of itself. Each is a piece of the continent, A part of the main. If a clod be washed away by the sea, Europe is the less. As well as if a promontory were. As well as if a manner of thine own Or of thine friend's were. Each man's death diminishes me, For I am involved in mankind. Therefore, send not to know For whom the bell tolls, It tolls for thee.   John Donne Devotions upon Emergent Occasions, no. 17 (Meditation) 1624 (published) なんびとも一島嶼にてはあらず、 なんびともみずからにして全きはなし、 人はみな 大陸 ( くが ) の 一塊 ( ひとくれ ) 、 本土のひとひら そのひとひらの 土塊 ( つちくれ ) を、 波のきたりて洗いゆけば、 洗われしだけ欧州の土の失せるは、 さながらに岬の失せるなり、 汝が友どちや 汝 ( なれ ) みずからの  荘園 ( その ) の失せるなり、 なんびとのみまかりゆくもこれに似て、 みずからを 殺 ( そ ) ぐにひとし、 そはわれもまた人類の一部なれば、 ゆえに問うなかれ、 誰がために鐘は鳴るやと、 そは汝がために鳴

「洋画 キリスト教関連」

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 西部劇の次はキリスト教関連映画で、ジーン・シモンズ、リチャード・バートン主演の『聖衣』におけるジーン・シモンズの気高い気品のある美しさに感銘した。シェンキヴィッチ原作の『クォ・ヴァディス』はロバート・テイラーとデボラ・カーが演じた。そしてアンソニー・クイン、ジーナ・ロロブリジータ主演の『ノートルダムのせむし男』、共にチャールトン・ヘストン主演の『十戒』と『ベン・ハー』。ローマ観光の折に、騎馬での戦車競技場を見た時にはすぐに『ベン・ハー』の映画の場面が浮かんだものであった。この辺りまでは、まだ中学生で父と一緒に見に行っていたように思う。 ローマの戦車競技場跡

「洋画 西部劇」

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小学生時代から父に連れられて、ジョニー・ワイズミューラーの『ターザン』のシリーズはよく観覧に行った。ターザンの次は西部劇である。最初に見たのがヘンリー・フォンダ主演の『荒野の決闘』で、監督はジョン・フォード、映画音楽は『愛しのクレメンタイン』であった。 Oh bury me not on the lone prairie. These words came low and mournfully From the pallid lips of the youth who lay On his dying bed at the close of day.  それから同じくジョン・フォード監督でジョン・ウェイン主演の『駅馬車』『黄色いリボン』などであるが、当時は米国の歴史など知らないので、白人が正義でインディアンが悪であるとばかり思っていた。白人至上主義の勧善懲悪を信じていたのであろう。それから長閑で忘れられないのは、アラン・ラッド主演の『シェーン』である。これらの映画は一九四六年から一九五三年頃にかけて制作されているから、日本での再上映の時に見たものと思われる。   自由の女神

「神秘的体験その2 地上の青黒き王冠たる星空」

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    もう一つの体験は、大学二年生の頃の広島県北の冠高原にある飯山貯水池キャンプ場での星空との出会いである。そこは広島学院のキャンプ地となっており、大学時代は毎夏に幟町教会の十六夜会のメンバーで一泊のキャンプを行っていたところである。昼は冠山に登り、それから飯山でテントを張って、キャンプ・ファイアの準備をし、飯盒飯を食べながらおしゃべりをした後、疲れて皆キャンプ・ファイアの周りに円形になって寝転がった。キャンプ・ファイアの火が小さくなるにしたがって、天空の星の数がいよいよ増えてゆき、銀河が鮮やかに銀色の河となって流れているのが見えてきた。誰かが「ほら流れ星だ」と叫び、目を凝らしていると一分間のうちに流れ星が二、三度はつつぅーと天空をよぎるのが見える。そうして全天空に幾千の宝玉を鏤めたかのごとき星々が、まさに今にも降ってくるかのように近くに迫ってくるのであった。かの時ほど大宇宙の悠久さと神秘さとそして人間存在の卑小さを感じたことはない。そうしてまた人間存在も又この大宇宙の一部にしか過ぎないとも感じた。その卑小なる人間存在が大宇宙という存在を認識できるということの不可思議さ、そしてまた人間存在が大宇宙というマクロ・コスモスを知ると同時に、自らの中にミクロ・コスモスを有していることも、思えば不思議なことである。令和元年(二〇一九年)七月に、かの地上の青黒き王冠たる星空を再度この目で見てみたいと、美ヶ原高原の王ヶ頭ホテルに一泊したが、残念ながら夜は曇っていて、夥しき夜空の星々と大銀河にはまみえることができなかった。    うるはしき星々ひかる 青空の高き丸屋根に  口づけし はげしく泣かん    かの星ら、恋しき人の眼なざしを 天上に千々に播きしか  かがやきて親しげに挨拶す 青空の幕屋より    青空の丸屋根へと 恋しき人の眼なざしへと  われは恭々しく腕を上げ わが願ひ口より流る 「やさしき眼よ、愛のともしびよ わが祈りを嘉したまへ  われを死なしめよ かくておんみらと   おんみらの天の総てを われに與へよ」         ハインリッヒ・ハイネ            「夜の船室にて」 片山敏彦訳 N君実家の庭園

「神秘的体験その1 三段峡の蛍の大群」

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  中学生と高校一年生の時と、二度ほど広島の県北、戸河内にある N 君の実家を訪れたことがあった。二度目の時には B 君、 H 君、 M 君、 T 君と一緒であったが、戸河内から三段峡巡りをした。黒淵を経て二段瀧へ行き、急流の猿飛をロープ船で渡って、二段瀧の勇壮な景観を楽しんで、帰りは荷物と洋服は船に乗せて、水深四、五メートルはあろうかと思われる猿飛を泳いで戻った。    水底の石碧く澄む朱夏の淵  龍次郎    それから三段の滝や聖湖ダムを巡って、その夜は黒淵荘に泊まった。夕食を終え二階の部屋で寛いでいると突然障子が明るくなり、障子を開けて欄干のある廊下に出てみると、まさに雲霞の如き蛍の大群が山荘の欄干すれすれに長い尾を引きながら流れ去ってゆく光景に出会った。射干玉の暗闇の中における蛍の大群の乱舞という大自然の生み出した須臾の美しき光景に、私達は驚嘆すると共に深く感動した。これが私の生涯における最初の神秘的体験である。平成二五年(二〇一三年)の七月に、東京のミニ修道会のメンバーと広島の修道同期の有志、計一二名で三段峡の蛍狩りリユニオンの一泊旅行を行った。三段荘に泊まって橋の上から蛍狩りをしたが、蛍の数は本当に少なくなっていた。そのようにして大変お世話になった畏友 N 君は、 2019 年 12 月 7 日に急逝されたことは,誠に残念であった。もっともっと、人生について N 君と語りたいことは山ほどあった。謹んで哀悼の意を表するものである。 三段峡の黒淵にて