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「神 話」 (詩集『憧憬』より)

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   銀色の砂子は 空間に氾濫して 私の眼の中に 清冽さを降り注ぐ   かつて私はオリュンポスの神々の如く 天翔ける存在になりたい と望んだ 神々は私にとって 崇高と永遠の具体であった 見えぬ手が大空より ぬっと突き出て 私を青暗いエーテルの中に ひきずり込んでくることを 私は夢みた   だが今の私はもう ギリシャ神話を解さない 天文学的な数の輝きに拘泥しない 私は只見詰める 私という天体で輝く星を   その星は遥かに遠く 天と地の創造される以前より 私の中で輝く日を 待ち受けていた   私は感じる 私は宇宙塵にすら劣らぬ程 無意味で卑小な 幾何学的点であるが この星を擁する私の天体は いかなる空間よりも 更に悠久なることを   私の為に残されていた神話は ひとつの星しか産みはしなかったが その星は 二次元の世界を超えたところからの ものであることを   自家撞着と二律背反の カオスの裡にあって 私はこのプラチナの恒星に 指針を求める   不安と喪失の雲が 私の天体を蔽わんとする時 私はこの精神的浄化の核である 煌めきに目を凝らす 幾千の宝石を鏤めた 大地の青い王冠より ただひとつの煌星を戴く私の天体の なんと清浄にして高邁なことよ   私は信ずる 時間と空間の彼岸で 胎まれた私の神話を   私は願う 有限な私の中で結晶された星の 未来永劫に輝くことを   かのイスラエルの瑞星が 東の国の賢者たちを ベトレヘムの馬小舎へと導いていった如く 私のこの星は 私の前に聖なる誕生への道を  照らし続けるだろう 花の聖母大聖堂(フィレンツェ)

「自費出版の詩集『憧憬』」

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富士銀行に入行して二年目の昭和四四年(一九六九年)に、 M 先生のご母堂のお世話で詩集『憧憬』を自費出版した。内容は高校時代と大学時代に書き残した星菫派的な詩と散文詩を取りまとめたもので、稚拙なものであったが、今となればその当時を思い出す記念碑の一つとなっている。なお「憧憬」という言葉と出会ったのは、倉田百三の『愛と認識への出発』であったことが、今回青春の書を探っていて分かった。 同じ頃に友人の K 君も『ながれ』という本を上梓し、その「あとがき」に「青春の思い出がやっとここに残った」と書いているが、本当にその通りである。若書きの『憧憬』の中から、詩というよりも散文ともいうべき二つを取り出して、ここに書き写しておきたい。   詩集 『憧憬』

「読書会 翌檜」

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  富士銀行広島支店に昭和四三年に入行し、新入行員としての修業が始まったが、昭和四二年入行の First 会と四三年入行のひとみ会のメンバーが、昭和四三年五月に喫茶店・紅蜂で集まり、読書会を結成することとなった。 最初の読書会は六月の某日で、場所は喫茶・紅蜂で開催された。以降読んだ本は、下記の通りである。なお場所は第六回より喫茶・琥珀に変わった。   昭和四三年六月   『愛の妖精』     ジョルジュ・サンド        七月   『愛と死との戯れ』  ロマン・ローラン        九月   『田園交響楽』    アンドレ・ジイド        一〇月  『星の王子さま』   サン=テグジュペリ   昭和四四年一月   『草の花』      福永 武彦        二月   『宣言』               有島 武郎        三月   『虹いくたび』    川端 康成        四月   『青春論』             亀井 勝一郎        五月   『光あるうち光の中を歩め』   トルストイ        七月   『出家とその弟子』  倉田 百三        八月   『あすなろ物語』   井上 靖        一〇月  『新しき糧』     アンドレ・ジイド    「翌檜」ノートに記載してあるのは、ここまでである。この辺りで当読書会は自然消滅したのかもしれない。しかし銀行に入ってもまだ半分学生気分が抜けないでいたような気がする。 小石川後楽園の枝垂れ桜

「彌勒菩薩との邂逅」(ノートの二つ目)

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大学四年生の時に、立命館大学に行っていた O 君のところに遊びに行ったことがある。下宿から立命館大学衣笠キャンパスは近く、北側に少し歩けば龍安寺があったと記憶している。その学食に夕飯を食べに行ったこともある。 その折に、奈良の古寺巡りをやろうという話になり、レンタ・カーで興福寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺辺りを周った記憶がある。高校の修学旅行は京都と奈良であり、お寺巡りはしていることになっているが、毎晩遅くまで旅館でトランプをしていたこともあり、お寺巡りはスキップしてバスの中で寝ていたので、まじめな古寺巡礼は初めてであった。その最初に興福寺の宝物館で邂逅したのが、中宮寺の弥勒菩薩であった。ちょうど中宮寺が耐火の鉄筋コンクリート造りに建て直している時期であり、弥勒菩薩は興福寺の宝物館に収められていたのであった。入館してすぐのところに御仏は安置されており、一目でこの弥勒菩薩に恋に落ちたのである。( Just fell in love at a glance . )相手が人間であれば、相手にも好きになってほしいという想いが湧くが、相手が仏像であれば何の遠慮もなく、一方的に憧憬の念を抱けるというのは、素晴らしいことである。しかも相手からのお返しは期待できないから、純粋な片思いを継続できるわけである。かくして昭和四十二年・ 1967 年の秋から今に至るまで、仏像の中で最高峰は中宮寺の弥勒菩薩となっている。そしてこの時、私は古寺や仏像への彷徨に目覚めたと言える。 これがノートの二つ目です。 浜離宮恩賜公園  

「愛と感謝とで」(ノートの一つ目)

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   愛と感謝とでこの世を見る時は   この世は   美しいものだらけだ。   そして死ぬことも美しいのだ   ありがたいことだ。           武者小路 実篤  実篤はその詩集のいたるところで、人生の美と愛と歓喜について謳っている。彼がその思想を培った時代には人道主義が隆盛期であったこと、また彼自身がトルストイなどの影響のもとに白樺派に属していたということ、そのことが彼を人生の讃美者となさしめたのであろう。貴族の門に生れ生活の苦労を知らぬ彼にして、この麗しい人生肯定の詩が産まれたことは否めない。でもそれだけであろうか。  ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。キルケゴールに始まる実存主義は死の不安を説き、人生の暗さを訴えた。サルトルは人生に嘔吐感を抱き、カミュは人生における不条理性を述べた。彼らは人生を肯定したいと願いながら、結局は人生の否定的側面の虜となってしまったように思える。そして現代の思潮は主として人生の否定的側面にあるようである。彼らにとってみれば、人生は素朴に肯定できるものではないかもしれない。だが、今夜のように円かな秋の月が、レースのカーテンを透してその光を静かに部屋に投げかけている時、我々人間はその光景の美しさに、世界の壮麗さに心打たれずにいられない。生きることを愛さずにはいられない。   こよい又おんみはおぼろの光もて  しげみを谷をみたし  かくてわがこころも  ついにのこるところなく融けひろがる        ゲーテ 「月に」  実篤は人間に与えられたもので善でないものはないと言う。人間が悪だと思うものも本当は悪ではなくて、それは阿片のように人間がその程度を知らずに使用するので麻薬性を持つのであり、適度に使用すればそれは薬となるものであるという考えである。アウグスティヌスもその『告白』において、人間は神によって創られたものであるから、その性はすべからく善であり悪は存在しないと言っている。悪というのは実在するものではなくて、それは善の欠如だと書いている。そうなるとヘッセの『デミアン』に出てくるアプラクサスのように、善と悪の両者を有する神は自己消滅してしまうことになる。  亀井勝一郎は、人間は死に向かって生きていると言う。そしてその死がロシア系ユダヤ人の哲学者であるシェストフの言うように

「ムシカの集い」 読書会

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昭和三七年、大学三年生の秋ごろから、サッカー部の同期やその仲間と読書会を開こうという話となり、友人の一人が女学院大学の知り合いと連絡をとり、男女合計で十人前後の読書会を創設した。場所は胡町にある音楽喫茶「ムシカ」で毎週土曜日の夕方五時からに決まった。場所は一階の一番奥のコーナーが常連席となり、コーヒー一杯で約二時間余り談論を楽しんでいた。そして会の名前もいつか「ムシカの集い」となった。  最初は背伸びをして「朝日ジャーナル」の記事からテーマを選んで話そうと試行錯誤したが、うまくゆかないので結局は小説を選んで、それを読んで来て感想を述べあうということになった。初めに読んだ本は確かでないがヘッセの『車輪の下』であったろうか。それから順不同であるが武者小路実篤の『愛と死』、横光利一の『旅愁』、高村光太郎の『千恵子抄』、井上靖の『氷壁』、川端康成の『美しさと哀しみと』、亀井勝一郎の『愛の無常について』、ヘッセの『デミアン』、有島武郎の『愛は惜しみなく奪う』、スタンダールの『赤と黒』、カミュの『シジフォスの神話』、倉田百三の『愛と認識との出発』などであろうか。  昭和四三年の三月に、義兄の経営していた中の棚「萬歳」で解散式を行ったので、一年半弱の短い期間ではあったが、その間夏には宮島の浦の一つで一泊のキャンプを楽しんだり、また冬はスキーに行ったりして、愉しく有意義な時間を過ごせた。  この読書会では途中からひとりひとりが一冊ノートを購入して、それに今現在の自分の想いを文章に書いてそれを皆で交換するようにした。そのノートから昭和四二年の九月に私が書いたものを、二つほど下記に表記することとする。 東京ミッドタウン 檜町公園  

『モシカアル日』 原詩

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  モシカアル日、 モシカアル日、私ガ山デ死ンダラ、古イ山友達ノオ前ニダ、コノ処置ヲ残スノハ。 オフクロニ会イニ行ッテクレ。 ソシテ言ッテクレ、オレハシアワセニ死ンダト。 オレハオ母サンノソバニイタカラ、チットモ苦シミハシナカッタト。 親父ニ言ッテクレ、オレハ男ダッタト。 弟ニ言ッテクレ、サアオ前ニバトンヲ渡スゾト。 女房ニ言ッテクレ、オレガイナクテモ生キルヨウニト。 オ前ガイナクテモオレガ生キタヨウニト。 息子タチヘノ伝言ハ、オ前タチハ「エタンソン」ノ岩場デ、 オレノ爪の跡ヲ見ツケルダロウト。 ソシテオレノ友、オ前ニハコウダ ―― オレノピッケルヲ取リ上ゲテクレ。 ピッケルガ恥辱デ死ヌヨウナコトハオレハ望マヌ。 ドコカ美シイフェースヘ持ッテ行ッテクレ。 ソシテピッケルノタメダケノ小サイケルンヲ作ッテ、 ソノ上ニ差シコンデクレ。  ネットには下記の記載があるので、参考までに記述する 「 原詩の作者ロジェ・デュプラはフランスの登山家。一九五一年六月二九日、ヒマラヤの高峰ナンダ・デヴィ(七八一七メートル)にアタック隊の隊長として登頂中、同僚とともに消息を絶ちました。享年三〇歳。」