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「京都と川端文学」

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 『川端康成-内なる古都』河野仁昭著によれば、川端は茨木の生まれ育ちではあるが、京都には住んだことはなく、川端の京都への関心は、茨木中学生時代に長田幹彦の祇園を描いた小説や吉井勇の京を詠じた短歌に接することによって育まれたのであった。それを考えると、私の京都への関心の背後に、川端文学の『虹いくたび』『日も月も』『美しさと哀しみと』『古都』という京都を舞台にしている小説を読んだことがあるのかも知らない。それらの小説の舞台となった寺社などを、結構私も訪れていることが分かった。この四冊の小説に出てくる京都のお寺などを、列記してみる。   『虹いくたび』 昭和二五年 一九五〇年 五一歳の作品  都踊り 大徳寺 (聚光院 孤蓬庵 総見院 龍翔寺 高桐院) 桂離宮  銀閣寺 法然院 天龍寺 安楽寺 霊鑑寺 若王寺 南禅寺 辻留   渡月橋 嵐山 小倉山 法輪寺の虚空蔵   『日も月も』 昭和二七年 一九五二年 五三歳の作品    大徳寺 孤蓬庵 鷹峯 光悦寺(太虚庵 光悦垣) 源光庵 中宮寺の彌勒   『美しさと哀しみと』 昭和三六年 一九六一年 六二歳の作品    都ホテル 嵐山 渡月橋 亀山公園 化野 祇王寺 円山公園 知恩院  鞍馬山 西芳寺 銀閣寺 龍安寺 大仙院 退蔵院 桂離宮 鴨川 東山  念仏寺 木屋町 川端通り 二尊院 京都ホテル 時雨亭 常寂光寺   厭離庵 相国寺 広沢の池 東寺 琵琶湖ホテル   『古都』 昭和三六年 一九六一年 六二歳の作品  平安神宮 南禅寺 知恩院 円山公園 清水寺舞台 嵐山 野々宮 二尊院  化野 木屋町 高瀬川 堀川 北山 東山 叡山 植物園 嵯峨 御室仁和寺  祇園祭 葵祭 高雄の紅葉 神護寺 高山寺 清滝川 北山杉 祇園さんの夜桜  北野神社 青蓮院 島原の角屋 鷹峯 京都御所 上賀茂神社 下賀茂神社  鹿ヶ谷の安楽寺 蓮華寺 黒谷の寺 北山しぐれ     こうして四作品に出てくるお寺の名前を見てみると、大徳寺や嵯峨野のお寺そして鷹峯などがよく出てくるが、全体を見ると京都を隈なく川端が見て回っていることがよくわかる。 光悦寺 太虚庵

「一九六八年から一九七三年の間の読書」

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  富士銀行広島支店と大阪外国事務課の在勤中は、あまり沢山の読書はしていない。社会人となって覚えなければいけないことが多かったからである。   『草の花』 『風土』 福永武彦      『友情論』           ボナール 『田園交響曲』   アンドレ・ジイド   『人間について』  ボーボワール 『誘惑者の日記』  キルケゴール     『月の光』     井上靖 『掌の小説』  『虹いくたび』  『日も月も』   『女であること』 『 舞姫』  『古都』 川端康成 『私の人生観』   小林秀雄        『今ひとたびの』     高見順  『新聖書講義』       河上徹太郎              『二十歳のエチュード』   原口統三    これ以外にも読書したのであろうが、今残っている文庫本を調べてみると上述の本しか残っていない。 足立美術館

「レンタ・カーでの奈良逍遥」

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  広島から大阪へ転勤して一年ぐらい後であろうか、広島から聖母幼稚園の M 先生(文芸の師匠)、 Y 先生、 K 君、 S 君がやってきて、皆でレンタ・カーを借りて奈良の古寺巡礼をすることになった。 今となってははっきりとした記憶はないが、多分法隆寺をスタート地点として、夢殿、 中宮寺、法輪寺、法起寺、それから慈光院、そして薬師寺、唐招提寺、東大寺大仏殿、二月堂、三月堂、戒壇院、興福院、不退寺、法華寺、秋篠寺辺りを周ったように思う。奈良の古寺巡礼を本格的に行ったのは、大学四年生以来の二度目であった。 法隆寺

「京阪神サッカー部へ入部」

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  昭和四六年八月に外為業務部大阪外国事務課への転勤の発令を受けた。その発令後まもなく京阪神サッカー部の K 監督から電話があり、着任したらその次の週は東京サッカー部との対抗戦のため東京に遠征する予定という話があった。有無を言わさずの入部命令である。当時京阪神サッカー部は創部して一年と経っておらず、中四国九州よりサッカー部にいたことのある経験者をこの転勤の際に集めたらしい。 仕事の方は外為特有の事務英語の飛び交う職場で輸出の初鑑を担当して、専門用語を覚えるのに苦労した。この課で休日に奈良などへのハイキングがあり、二上山の山頂近くの大津皇子の墓に参ったり、飛鳥の里をハイキングしたりした。また再度中宮寺を訪れて、憧れの弥勒菩薩との再会を果たした。この時期は京都の寺も周ったが、奈良の寺の方が巡った回数は多かったかもしれない。 大阪ではサッカーのグラウンドが至近距離にある千里丘独身寮に入寮して、淀屋橋にある大阪支店ビルの三階の外国事務課に通勤していた。サッカー部の練習では、広島大学で取り入れていた有名なクラマー・コーチの準備体操を採用してもらい、また攻撃や守備の練習に広島大学時代のやり方を行って、京阪神サッカー部の実力向上に努めた。フォーメーションに関していえば、当時はまだ WM の古い形であり、私はライト・インナーのポジションが多かった。入部して半年後にはキャプテンとなり、圧倒的に劣勢であった東西対抗戦も、二年目には確か負けはしたものの、五対三の接戦となるまで、戦力は向上してきた。二年目の春のインターバンク・トーナメント戦では、勝ち進んで決勝戦まで行ったが、第一勧業銀行との決勝戦においてペナルティ・キック戦で敗れて、準優勝となったのは残念であった。京阪神サッカー部は私が転勤して二年目にリーグ戦優勝を果たして、表彰された。 京阪神サッカー部 (前列右から三人目)

「彌勒との逢瀬」 (詩集『憧憬』より)

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    このいかるがの尼寺におわすのは 「いづれを君が恋人と分きて知るべき術(すべ)やある」 と歌いながら 猫柳のしなだれかかる川面に入水したオフェーリア ではなくて彌勒さまです 半跏思惟の姿で世の平安を祈願し瞑想している 彌勒さまです   貴方と初めてお逢いしたのはおとどしの神無月 秋ののびやかな日差しの殆んど入り込まない 博物館の一隅で 貴方は私を待っておいでになった   その柔らかな口もとの微笑み 貴方はまことに心の深いところから そうしてそのまろやかな姿態すべてで 微笑んでおられる 笑みというものがこのように素直に しかも心の奥底から湧いてくることも ありうるのだということに 私は心打たれました   そうして今また 貴方の足元に跪いて 貴方の高貴なお顔を見上げると 私の奥深いところで 貴方の瞑想してこられた長い歳月が 甦ります 聞こえるのです 貴方の中から大和民族の 歓喜と悲哀の長い尾を引く声々が   御仏を前にして私たちが敬虔になるのは 私達個々の生を乗り超えた 大和民族の悲喜交々の声を 私達が御仏の中に見出すからでありましょうか その時私達の声も 御仏が未だ過ぎやらぬ彼方の時空へと お運びになるのだと 思われるからでありましょうか   彌勒さま 貴方の中に溶けこんで 私は過去と現在そして未来の 全ての時空に触れるのです 私の中には永劫のしるしがない   緑の葉を陽が透かして 貴方のみ姿がさわやかな秋の風に 浮かんで見えます ひとときの逢瀬が私の心を和ませます   見仏聞法 卑小なる人智により永劫を見出すのではなく 御仏のおおらかな慈悲に包まれて 永劫を感ずること これこそが私達に許された唯一の法悦なのだと 私は今にして思います   敷島の大和心に 私の中に棲まぬ永劫に そして私達をはるかに超えた時空にと 貴方は私を導いて下さる   彌勒さま 貴方の前で私は永久(とこしえ)に 私を失いつづけたいものです    この二つの散文詩らしきものを読み返すと、仏像・大和民族・見仏聞法・永劫・星々・崇高と

「神 話」 (詩集『憧憬』より)

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   銀色の砂子は 空間に氾濫して 私の眼の中に 清冽さを降り注ぐ   かつて私はオリュンポスの神々の如く 天翔ける存在になりたい と望んだ 神々は私にとって 崇高と永遠の具体であった 見えぬ手が大空より ぬっと突き出て 私を青暗いエーテルの中に ひきずり込んでくることを 私は夢みた   だが今の私はもう ギリシャ神話を解さない 天文学的な数の輝きに拘泥しない 私は只見詰める 私という天体で輝く星を   その星は遥かに遠く 天と地の創造される以前より 私の中で輝く日を 待ち受けていた   私は感じる 私は宇宙塵にすら劣らぬ程 無意味で卑小な 幾何学的点であるが この星を擁する私の天体は いかなる空間よりも 更に悠久なることを   私の為に残されていた神話は ひとつの星しか産みはしなかったが その星は 二次元の世界を超えたところからの ものであることを   自家撞着と二律背反の カオスの裡にあって 私はこのプラチナの恒星に 指針を求める   不安と喪失の雲が 私の天体を蔽わんとする時 私はこの精神的浄化の核である 煌めきに目を凝らす 幾千の宝石を鏤めた 大地の青い王冠より ただひとつの煌星を戴く私の天体の なんと清浄にして高邁なことよ   私は信ずる 時間と空間の彼岸で 胎まれた私の神話を   私は願う 有限な私の中で結晶された星の 未来永劫に輝くことを   かのイスラエルの瑞星が 東の国の賢者たちを ベトレヘムの馬小舎へと導いていった如く 私のこの星は 私の前に聖なる誕生への道を  照らし続けるだろう 花の聖母大聖堂(フィレンツェ)

「自費出版の詩集『憧憬』」

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富士銀行に入行して二年目の昭和四四年(一九六九年)に、 M 先生のご母堂のお世話で詩集『憧憬』を自費出版した。内容は高校時代と大学時代に書き残した星菫派的な詩と散文詩を取りまとめたもので、稚拙なものであったが、今となればその当時を思い出す記念碑の一つとなっている。なお「憧憬」という言葉と出会ったのは、倉田百三の『愛と認識への出発』であったことが、今回青春の書を探っていて分かった。 同じ頃に友人の K 君も『ながれ』という本を上梓し、その「あとがき」に「青春の思い出がやっとここに残った」と書いているが、本当にその通りである。若書きの『憧憬』の中から、詩というよりも散文ともいうべき二つを取り出して、ここに書き写しておきたい。   詩集 『憧憬』