「京阪神サッカー部へ入部」

 昭和四六年八月に外為業務部大阪外国事務課への転勤の発令を受けた。その発令後まもなく京阪神サッカー部のK監督から電話があり、着任したらその次の週は東京サッカー部との対抗戦のため東京に遠征する予定という話があった。有無を言わさずの入部命令である。当時京阪神サッカー部は創部して一年と経っておらず、中四国九州よりサッカー部にいたことのある経験者をこの転勤の際に集めたらしい。

仕事の方は外為特有の事務英語の飛び交う職場で輸出の初鑑を担当して、専門用語を覚えるのに苦労した。この課で休日に奈良などへのハイキングがあり、二上山の山頂近くの大津皇子の墓に参ったり、飛鳥の里をハイキングしたりした。また再度中宮寺を訪れて、憧れの弥勒菩薩との再会を果たした。この時期は京都の寺も周ったが、奈良の寺の方が巡った回数は多かったかもしれない。

大阪ではサッカーのグラウンドが至近距離にある千里丘独身寮に入寮して、淀屋橋にある大阪支店ビルの三階の外国事務課に通勤していた。サッカー部の練習では、広島大学で取り入れていた有名なクラマー・コーチの準備体操を採用してもらい、また攻撃や守備の練習に広島大学時代のやり方を行って、京阪神サッカー部の実力向上に努めた。フォーメーションに関していえば、当時はまだWMの古い形であり、私はライト・インナーのポジションが多かった。入部して半年後にはキャプテンとなり、圧倒的に劣勢であった東西対抗戦も、二年目には確か負けはしたものの、五対三の接戦となるまで、戦力は向上してきた。二年目の春のインターバンク・トーナメント戦では、勝ち進んで決勝戦まで行ったが、第一勧業銀行との決勝戦においてペナルティ・キック戦で敗れて、準優勝となったのは残念であった。京阪神サッカー部は私が転勤して二年目にリーグ戦優勝を果たして、表彰された。

京阪神サッカー部 (前列右から三人目)


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