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「ダルマ・グループ」

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修道中学校では三年間を通して、三組の同じクラス・メイトと一緒であった。高校に上がるとクラスは毎年変わったが、受験コースにより授業はバラバラで受けたのであまり同クラスという感覚はなかった。  中学一年生の時に卓球部に入部したが、中学・高校を通して卓球台が二台しかなく、特に一年生はランニングと素振りばかりやらされたので面白くなく、辞めて書道部に入った。しかし卓球そのものは好きであったので、クラス対抗のメンバーとして卓球場で練習したが、幟町カトリック教会では無料で卓球台を使えることを兄より聞いて、教会を訪れた。一緒に行ったのは席順も近く自転車通学の O 君、 K 君、 S 君達だったと記憶している。卓球台の小部屋がありそこで練習をした後、司祭館で神父に挨拶をした。スペイン人の S 神父から卓球台を使ってよいこと、友人を一〇名くらい連れてくれば、英語を教えてあげることなどの話があり、自転車で通学している友人に声掛けをして、学校の終了後は、幟町教会に自転車を連ねてよく遊びに行くようになった。これがカトリック教会やその付属の聖母幼稚園の人達との邂逅の契機となったのである。  教会に遊びに行くメンバーもほぼ固まり、他の学校のメンバーも入れてグループ名をダルマ・グループと名付けた。教会のグループに仏教の達磨大師の名前を冠するのもおかしな話であるが、「七転び八起きの精神」を尊んで命名されたのであった。   縮景園(泉邸)

『反橋』『しぐれ』『住吉』の小編三編  川端康成

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 この川端康成集で印象的なのは、いずれも「あなたはいまどこにおいでなのでしょうか」で始まる『反橋』『しぐれ』『住吉』の小編三編である。この三編に通底しているものは、『住吉物語』や和歌などの王朝文化であり、東山文化、連歌・俳諧や文人画であるが、「近代の魂の病から出発したような」スウチンそしてアルブレヒト・デュウラアという西洋画も取り上げている。この三編に取り上げられていることは、ノーベル文学賞記念講演の『美しい日本の私』の基礎になっていると思うが、その講演内容には日本の文化にとって重要な位置を占めている芭蕉の名前がないのは不思議である。一方『しぐれ』には芭蕉の次の文章が引用されている。   「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり」                芭蕉 『笈の小文』    また『美しい日本の私』の中では、「日本美術の特質」の一つを「雪月花の時、最も友を思ふ」という白楽天の詩語に約められるとした矢代幸雄の文章を紹介している。日本美とは四季折々の自然の美しさに没入し、合一することであると、川端は考えていたのである。 「雪月花の時、最も友を思ふ」  白楽天 THE TIME OF THE SNOWS, OF THE MOON, OF THE BLOSSOMS - THEN MORE THAN EVER WE THINK OF OUR COMRADES. 洛北 原谷苑

『美しい日本の私-その序説』 川端康成

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  旧富士銀行へ就職した昭和四三年(一九六八年)の一二月に、川端康成はノーベル賞の受賞講演会で『美しい日本の私-その序説』( Japan, the Beautiful, and Myself )を講話している。大東亜戦争での大敗後の国の復興が成り、高度成長時代が始まりだした時期に、日本古来の美と文化と伝統を世界に向けて発信することは大きな意義のあることであった。講話の冒頭に道元禅師の和歌を載せたことも、次のことを意識してこその故であった。すなわち、日本人は四季折々の雪月花の美に触れながら、自然と融合して「もののあはれ」を感じながら生きるという死生観を有していること。そして日本人の無常観とは虚無ということではなく、禅の無一物つまり無尽蔵につながるものであることを、強く印象付けるものとなっている。 「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり  道元禅師」   IN THE SPRING, CHERRY BLOSSAMS,    IN THE SUMMER THE CUCKOO,    IN AUTUMN THE MOON, AND IN    WINTER THE SNOW, CLEAR, COLD.   川端康成に関しては、『伊豆の踊子』爽やかな青春ものであるが、『雪国』『みずうみ』 『千羽鶴』『眠れる美女』は、大人向けの文学である。にもかかわらずその非倫理性をあまり気にすることなく、川端の文学性を理解しえたのは幸せであった。当時は日本文学集や世界文学集そして哲学論文集の流行した時代であったが、今手元にあるのは『日本の文学 38』「川端康成」中央公論社で、昭和三九年二月二十五日初版印刷の第二版である。価格はなんと三九〇円となっている。 永観堂の紅葉

「川端文学について」

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  高校生時代の読書としては、そんなに多くの本を読んだ記憶はないが、なぜか新感覚派の横光利一の『旅愁』に感動したことがある。「マルセーユつれしゃるまん ( Très Charmant ) 覚えけり」。歴史と文化を勉強に行った矢代のパリやスイスでの千鶴子への慕情、伊勢神宮への郷愁など、ヨーロッパへの憧れを覚えたものであった。 その後横光利一に関しては、『機械』などを読みかけたがあまり興味がわかず、同じ新感覚派である川端康成の本を読み始めた。『伊豆の踊子』から入って、『古都』『美しさと哀しみと』『雪国』『みずうみ』などを、受験校であった広島の修道高校に通う勉強の合間に、主として勉強を一段落させて、深夜に読んでいたような記憶がある。 川端の『山の音』はさすがにその味わいがよくわからなかった。幼くして父母と死別し、小学生になってからは祖父と二人の生活で、家族の本当の情愛を知らない孤独な環境で育った川端は、それだけ特に母性的愛情に飢えていたといえる。それゆえに母性的なものへの思慕は強烈で、又女性の美しさへの憧憬はいや増したのであろう。そうした環境で育まれた美的感覚と研ぎ澄まされた文章力に感銘を受けたものであった。 円山公園の枝垂れ桜

『虹いくたび』 川端 康成

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「米原あたり、琵琶湖のむこうに冬の虹が見える。」 「その人の生きてきた時間の深さ、その人の心の届く時間の深さは、その人の深さである。」 「京都の女は足がきれいで、唇がやわらかい。」 「一輪の花美しくあらば、われもまた生きてあらん。」 この本に出てくる京都は、下記の通りである。  都踊り 大徳寺 (聚光院 孤蓬庵 総見院 龍翔寺 高桐院) 桂離宮  銀閣寺 法然院 天龍寺 安楽寺 霊鑑寺 若王寺 南禅寺 辻留   渡月橋 嵐山 小倉山 法輪寺の虚空蔵 大徳寺 高桐院      

「二ーバーの祈り」 ラインホルド・ニーバー

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  後にO支店の時に、取引先の社長から教示された片言隻句に「ニーバーの祈り」というものがあり、この言葉には随分と助けられた。苦しい時に逃げようとする弱さをどうにか抑ええて、難問と立ち向かえる勇気を与えてくれたのは、この言葉のお蔭である。「 Serenity Player 」 と言われるこの言葉は、米国のバルト神学者ラインホルド・ニーバーの残したものと言われる。英語では様々な表現で表されているが、私の最初に習ったものを下記に表示する。     “Oh God, give us serenity to accept what can’t be changed, give us courage to change what to be changed and give us wisdom to distinguish the one from the other.”  「神よ、変えることができないものを受け止める冷静さと、変えるべきものを変える勇気と、その前者と後者を見分ける智慧をお与えください」          ラインホルド・ニーバー      まだ人生の何たるかを知らない年代で、様々な内容の小説や本を読むということは、人生を疑似体験し、生きることの意味合いを想像するという意味で、大変意義のあることだと感じる。 瑠璃光寺(山口)

『愛と死』 武者小路実篤

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  『愛と死』で滂沱の感涙を流した個所は次の通りである。場面は主人公・村岡が先輩の文筆家・野々村の妹であり、許嫁である夏子の流行性感冒による急死の電報を、フランスより帰国途上のシンガポールにおいて受け取るところである。ボーイが持ってきた電報の内容は、下記の通りであった。 「ケサ三ジ ナツコリュウコウセイカンボウデシス カナシミキワマリナシ スマヌ ノノムラ」  まさに夏子との再会と結婚という天国を控えていたはずの主人公・村岡に、神が下したのは夏子の死という地獄の苦しみであった。なぜ自分にこんな不条理が、試練が与えられなければならないのだろうかと思うことは、人生で幾度もあるものである。その不条理や試練は、変えられないものである限り、決してそこから逃避するのではなく、しっかりと受け止め、我慢強く耐えて、そして乗り超えなければいけないものである。 雨の新宿御苑の桜