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『三太郎の日記』 阿部次郎

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 「 Leben ( 人生)は Prozess der Reinigung (浄化の過程)として初めて意義あり。   Reingung の目標は Das Gute, Das Schön e . (善と美)」           阿部 次郎 『三太郎の日記』   この頃から読書の時に、感銘を受け自分の胸に刻んでおきたいと思う内容の文章に出会ったときには、必ず鉛筆で横線を引きながら読むようになった。そして後から再度その横線部分を読み返すのである。今手元にある『三太郎の日記』を見てみると、購入日は一九六六年八月二六日 金正堂 貳百八拾圓 とあり、大学三年生の時である。この頃に中央公論社より「世界の名著」シリーズが発刊され、その中からかまたは単品で、カント、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、キルケゴール、ニーチェなどを購入したが、そのほとんどすべてを完読できなかったように思う。ただ哲学というものの難解さと人間という存在の不可思議さを多少は理解することができた。  <阿部次郎>  1883年(明治16年)~1959年(昭和34年)山形生れ 大正の教養主義を代表する思想家、評論家。東京大学哲学科でケーベルなどに学び、夏目漱石門に入り森田宗平、安倍能成らと交わる。31歳で『三太郎の日記』を書き、ベスト・セラーとなる。東北大学に招かれ、渡欧。リップス・ニィーチェ・ゲーテなどの研究を紹介し、人格主義の思想を鼓吹した。 小石川植物園

「修道の仲間と広島学院の仲間」

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  高校生頃になって広島学院の同学年の生徒たちも教会に現れるようになった。幟町カトリック教会もイエズス会系カトリックであり、広島学院も同じ系列であったから、彼らの方が教会によりふさわしかったわけであるが、我々修道の仲間は何となく対抗心を持ったのであった。広島学院の生徒たちは我々ダルマ・グループとは異なり、女子高生もメンバーに入れていしころ会というグループを組成した。それに対抗して高校三年生の時には、広島女学院の生徒と一緒に友人宅でクリスマス会を催したこともある。 大学に入ってよりは、ダルマ・グループといしころ会の境界も外れて、広島に残っているメンバーが十六夜会というグループを作って、他の都市の大学に行っているメンバーは休暇の時に集まるという形になって、この会は今でも続いている。 本に関していえば、修道の仲間と広島学院の仲間では読書のレベルに雲泥の差があり、例えば広島学院の仲間は阿部次郎の『三太郎の日記』や、倉田百三の『愛と認識との出発』などについて談論しているのに、我々修道の仲間は全くついてゆけないのであった。これは読書に関する、人生で初めて味わった大きなショックであった。それからは広島学院の仲間たちの読んでいたやや哲学的な、また人生論的な本を、負けじとばかり読み始めたのであった。 縮景園(泉邸)

「ダルマ・グループ」

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修道中学校では三年間を通して、三組の同じクラス・メイトと一緒であった。高校に上がるとクラスは毎年変わったが、受験コースにより授業はバラバラで受けたのであまり同クラスという感覚はなかった。  中学一年生の時に卓球部に入部したが、中学・高校を通して卓球台が二台しかなく、特に一年生はランニングと素振りばかりやらされたので面白くなく、辞めて書道部に入った。しかし卓球そのものは好きであったので、クラス対抗のメンバーとして卓球場で練習したが、幟町カトリック教会では無料で卓球台を使えることを兄より聞いて、教会を訪れた。一緒に行ったのは席順も近く自転車通学の O 君、 K 君、 S 君達だったと記憶している。卓球台の小部屋がありそこで練習をした後、司祭館で神父に挨拶をした。スペイン人の S 神父から卓球台を使ってよいこと、友人を一〇名くらい連れてくれば、英語を教えてあげることなどの話があり、自転車で通学している友人に声掛けをして、学校の終了後は、幟町教会に自転車を連ねてよく遊びに行くようになった。これがカトリック教会やその付属の聖母幼稚園の人達との邂逅の契機となったのである。  教会に遊びに行くメンバーもほぼ固まり、他の学校のメンバーも入れてグループ名をダルマ・グループと名付けた。教会のグループに仏教の達磨大師の名前を冠するのもおかしな話であるが、「七転び八起きの精神」を尊んで命名されたのであった。   縮景園(泉邸)

『反橋』『しぐれ』『住吉』の小編三編  川端康成

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 この川端康成集で印象的なのは、いずれも「あなたはいまどこにおいでなのでしょうか」で始まる『反橋』『しぐれ』『住吉』の小編三編である。この三編に通底しているものは、『住吉物語』や和歌などの王朝文化であり、東山文化、連歌・俳諧や文人画であるが、「近代の魂の病から出発したような」スウチンそしてアルブレヒト・デュウラアという西洋画も取り上げている。この三編に取り上げられていることは、ノーベル文学賞記念講演の『美しい日本の私』の基礎になっていると思うが、その講演内容には日本の文化にとって重要な位置を占めている芭蕉の名前がないのは不思議である。一方『しぐれ』には芭蕉の次の文章が引用されている。   「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり」                芭蕉 『笈の小文』    また『美しい日本の私』の中では、「日本美術の特質」の一つを「雪月花の時、最も友を思ふ」という白楽天の詩語に約められるとした矢代幸雄の文章を紹介している。日本美とは四季折々の自然の美しさに没入し、合一することであると、川端は考えていたのである。 「雪月花の時、最も友を思ふ」  白楽天 THE TIME OF THE SNOWS, OF THE MOON, OF THE BLOSSOMS - THEN MORE THAN EVER WE THINK OF OUR COMRADES. 洛北 原谷苑

『美しい日本の私-その序説』 川端康成

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  旧富士銀行へ就職した昭和四三年(一九六八年)の一二月に、川端康成はノーベル賞の受賞講演会で『美しい日本の私-その序説』( Japan, the Beautiful, and Myself )を講話している。大東亜戦争での大敗後の国の復興が成り、高度成長時代が始まりだした時期に、日本古来の美と文化と伝統を世界に向けて発信することは大きな意義のあることであった。講話の冒頭に道元禅師の和歌を載せたことも、次のことを意識してこその故であった。すなわち、日本人は四季折々の雪月花の美に触れながら、自然と融合して「もののあはれ」を感じながら生きるという死生観を有していること。そして日本人の無常観とは虚無ということではなく、禅の無一物つまり無尽蔵につながるものであることを、強く印象付けるものとなっている。 「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり  道元禅師」   IN THE SPRING, CHERRY BLOSSAMS,    IN THE SUMMER THE CUCKOO,    IN AUTUMN THE MOON, AND IN    WINTER THE SNOW, CLEAR, COLD.   川端康成に関しては、『伊豆の踊子』爽やかな青春ものであるが、『雪国』『みずうみ』 『千羽鶴』『眠れる美女』は、大人向けの文学である。にもかかわらずその非倫理性をあまり気にすることなく、川端の文学性を理解しえたのは幸せであった。当時は日本文学集や世界文学集そして哲学論文集の流行した時代であったが、今手元にあるのは『日本の文学 38』「川端康成」中央公論社で、昭和三九年二月二十五日初版印刷の第二版である。価格はなんと三九〇円となっている。 永観堂の紅葉

「川端文学について」

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  高校生時代の読書としては、そんなに多くの本を読んだ記憶はないが、なぜか新感覚派の横光利一の『旅愁』に感動したことがある。「マルセーユつれしゃるまん ( Très Charmant ) 覚えけり」。歴史と文化を勉強に行った矢代のパリやスイスでの千鶴子への慕情、伊勢神宮への郷愁など、ヨーロッパへの憧れを覚えたものであった。 その後横光利一に関しては、『機械』などを読みかけたがあまり興味がわかず、同じ新感覚派である川端康成の本を読み始めた。『伊豆の踊子』から入って、『古都』『美しさと哀しみと』『雪国』『みずうみ』などを、受験校であった広島の修道高校に通う勉強の合間に、主として勉強を一段落させて、深夜に読んでいたような記憶がある。 川端の『山の音』はさすがにその味わいがよくわからなかった。幼くして父母と死別し、小学生になってからは祖父と二人の生活で、家族の本当の情愛を知らない孤独な環境で育った川端は、それだけ特に母性的愛情に飢えていたといえる。それゆえに母性的なものへの思慕は強烈で、又女性の美しさへの憧憬はいや増したのであろう。そうした環境で育まれた美的感覚と研ぎ澄まされた文章力に感銘を受けたものであった。 円山公園の枝垂れ桜

『虹いくたび』 川端 康成

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「米原あたり、琵琶湖のむこうに冬の虹が見える。」 「その人の生きてきた時間の深さ、その人の心の届く時間の深さは、その人の深さである。」 「京都の女は足がきれいで、唇がやわらかい。」 「一輪の花美しくあらば、われもまた生きてあらん。」 この本に出てくる京都は、下記の通りである。  都踊り 大徳寺 (聚光院 孤蓬庵 総見院 龍翔寺 高桐院) 桂離宮  銀閣寺 法然院 天龍寺 安楽寺 霊鑑寺 若王寺 南禅寺 辻留   渡月橋 嵐山 小倉山 法輪寺の虚空蔵 大徳寺 高桐院