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「ニュー・ハンプシャーの夏」

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一九七七年の夏休みは、 NEW HAMPSHIRE 州にあるホワイト・マウンテン国立公園で過ごした。リゾート・タウン NORTH CONWAY 、 STORY LAND 、 MOUNT WASHINGTON のスカイラインからの絶景、モーテルに泊まり、 SIX GUN CITY と LOST RIVER 渓谷。それから LAKE REGION の LACONIA に泊まった。次の日は MASSACHUSETTES 州の CAPE COD に向かい、コッド岬で観光をする。コッドとは鱈の意味である。最後の日は RHODE ISLAND 州のジャズで有名な NEW PORT を見て回った。三つの州をこの夏はドライブ観光したことになる。 九月は BRONX ZOO に行き、一〇月は BEAR MOUNTAIN の紅葉を楽しんだり、 I 家、 I 家と一緒にリンゴ狩りに行ったりした。買い物は自宅から近い、 CROSS COUNTY SHOPPING CENTER や日本食材店の明治屋に行くことが多かった。 一二月には次男の誕生を控えて、日本から妻の伯母さんと妹がやってきたので、ダウン・タウンやバッテリー・パーク、そして自由の女神、 ROCKEFELLER CENTER などに連れて行った。   STORY LAND

「TANGLEWOODの音楽フェスティバル」

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  六月には、一泊で TANGLEWOOD の音楽フェスティバルを聞きに出かけた。当時のボストン交響楽団の指揮者は勿論小澤征爾であり、広い公園の真ん中にオープン・スペースの屋根付きステージがあり、そこで楽団は音楽を演奏する。周囲は芝生となっており、我々は芝生に寝転がって、小沢の音楽を楽しむことができた。長男はストローラーに乗ったままで大丈夫である。セントラル・パークでも野外音楽堂で芝生に座ってチャイコフスキーの『一八一二年』を聞いたことがあり、最後は花火が終楽章を飾ったのを見た記憶があるが、日本とは異なり色々な音楽の楽しみ方が、米国にはあるものだと感じ入った。小澤征爾と言えば、父親が満州事変に絡んだ服部征四郎と石原莞爾を尊敬しており、その名前から征爾と名付けたことで有名であるが、小澤征爾時は先日のテレビ(二〇一九年九月二二日)のインタビューで、「殻を破って外へ出るというエネルギーが大切である」と語っていた。ヘッセも『デミアン』の中で、次のように記述している。   「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。  卵は世界だ。  生まれようと欲するものは一つの世界を  破壊しなければならない。  鳥は神に向かって飛ぶ。  神の名はアプラクサクという。」 *アプラクサス : ヘレニズム時代に、アレクサンドリア周辺で最高神として崇められた。 TANGLEWOODの音楽フェスティバル

「バージニア州・ペンシルベニア州への旅」

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一九七七年の一月、 K 家に代わってお向かいに入ったのがジョンとメルセデス夫妻であった。まだお子さんがいないので、我が家の長男をとてもかわいがってくれた。米国生活ではプライベートで現地の方々とお付合いする機会が少なく、あとは同じアパートの元お医者さんのドクター・ディンゴールと奥さんのメリッツァの二家族でしかなかった。ドクターは米国生まれであったが、メリッツァはユーゴスラビアの生れで、米国への避難民であった。一度夕食に誘われたことがあったが、きわめて質素な生活をされておられる様子がよく分かった。 二月にはハドソン川上流にあるウェスト・ポイントの陸軍士官学校を訪れ、四月にはニュージャージー州の桜の名所・ブランチ・ブルック・パークへオーク・ヒルのお仲間とお花見に行った。メルセデスの実家にお呼ばれしたのも、この時期である。 五月の春の旅行は、まずはペンシルバニア州のデュポンの庭園、 LONGWOOD GARDEN を訪れ、米国独立戦争の大陸軍の宿泊所のあったバレー・フォージを見て、それからバージニア州の初代大統領のプランテーションのあったマウント・バーノンを見学した。新古典主義ジョージア調建築様式の邸宅であった。ついで SHENANDAUH 国立公園の SKY LINE PARKWAY をドライブして、シェナンドーの美しい山並みを満喫した。バージニア州からペンシルバニア州に戻って、チョコレートのハーシー・パークの遊園地とローズ・ガーデンで同じオーク・ヒル在住の K 家と S 家と出会い、そこでの観光をご一緒した。そこで両家とお別れして、ランカスターにあるダッチ・ワンダーランド、避暑地のポコノにある US メモリー・タウンを楽しんで帰宅した。一泊したのはよく覚えていないが、バージニアのモーテルであったろう。 Longwood Garden  

「ハロウィーン」

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一九七六年の一〇月にはハロウィーンで、長男も初めて仮装してミッキー・マウスとなり、 TREAT OR TRICK でお菓子を沢山もらってきた。またクリスマスも、オーク・ヒル・ファミリーで賑やかにパーティを開いて楽しんだ。   ハロウィーン

「ナイアガラからレイク・プラシッド 」その2

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  次の日はカナダの首都であるオタワに行き、国会議事堂や運河などを観光する。ニューヨークも東京と比べると湿度が低いが、カナダの都市はいずれも湿度が低いので、空気が澄んでおり、写真の風景が見事に再現される。オタワで宿泊したのはホテル・シャトー・ローリエであったが、現在は Fairmont Château Laurier と名前が変わっているようである。 オタワからモントリオールに向かう。北米一のステンド・グラスと言われるノートルダム聖堂、パリの風情が漂うオールド・モントリオール、万国博覧会の跡地の公園、オリンピック公園などを巡った。因みにトロントとオタワはオンタリオ州であるが、モントリオールはケベック州でフランス語圏であり、道路標識なども、モントリオールでは英語とフランス語が併記されていたと思う。ケベックの町には、まだ単身赴任の時期に遊びに行ったが、ケベックへ向かう途中から道路標識がフランス語のみになった記憶がある。ケベックでは、シャトー・フロンテナックというホテルがイギリスの女王陛下もお泊りになるホテルとして有名であり、まさにシャトーという名の通りの立派な建物であった。モントリオールから南下して、ニューヨーク州の北部にあるレイク・プラシッドに到着する。ここは一九三二年に冬季オリンピックを開催した場所であり、また次回の一九八〇年に第二回目の冬季オリンピックが予定されているところである。九月なのに寒くて長男にもセーターを着せたほどであった。ミラー・レイクの近くのモーテルに泊まる。 Lake Placidにて

「ナイアガラからレイク・プラシッド 」その1

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  一九七六年の七月には担当業務はオペレーションの PAYING & RECEIVING SECTION となり、そこでは業務上のトラブルで思わぬ苦労をした。帰国までこのオペレーションで勤めることとなる。  プライベートでは一九七六年の六月には、長男を連れて初めて YANKEE  STADIUM に野球の観戦に行った。長期休暇は九月に取得して、 I 家、 T 家とご一緒にキャッツキルに泊まって、子供たちを預けて、大人はゴルフを楽しんだ。 そこから我が家は NEWYORK THROUGH WAY を北上して、ナイアガラの米国側に着いた。カナダ側のスカイロン・タワー・レストランでランチを食べて、カナダ側のナイアガラ瀑布を見た。巨大な幅広い水のベルトが目の前を真っ逆さまに落ちてゆく様は、筆舌に尽くし難い。滝壺のあたりでは霧の乙女号 MAID OF THE MIST が瀑布すれすれに航行している。エルトン・ジョン風のサングラスをかけて、まさにその当日に二、三歩生まれて初めて歩いた長男には、ナイアガラ瀑布を見た記憶は残らないであろう。 ナイアガラからトロントの町に入り、市庁舎、オンタリオ州議事堂、白亜の豪華な邸宅 CASA ROMA を見て回り、セント・ローレンス川沿いに車で走って、サウザンド・アイランドのコテージ風の宿に泊まる。 ナイアガラ瀑布

「ボストンへの旅」

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  一九七六年の一月一九日に長男が生まれた。長男の誕生に際しては色々な人からお祝いの品を頂いたが、 I 家から頂いたピーター・ラビットのぬいぐるみと、 I 家から頂いたプラスチック製のロコモーティフは今でも残っており、ロコモーティフの方は四人の孫たちがいまでもねじを巻いて動かして、遊んでいる。四月にはライ・ビーチへ連れて行ったが、もう泳いでいる人たちがいるのには驚いた。ゴルフは MAPLE MORE GOLF COURSE にウェストチェスターの同僚たちとよく出かけた。自宅のすぐそばの BRONX RIVER PARKWAY には長男を連れてよく遊びに行ったが、新婚さんの写真を写す格好の場所でもあった。  五月にはボストンに行った。長男はまだ四ヶ月であり、自動車用のクリブに乗せて連れて行ったが、クーラーがないので暑くて大変であった。 OLD STATE HOUSE 、マサチューセッツ州議会議事堂、ジョージア王朝風のパーク通り教会、キングス・チャペル(英国国教会)、旧市庁舎とベンジャミン・フランクリン像などを見て回り、それからボストン美術館へ行った。当時の私の西洋美術認識は印象派の域を出ていなかったので、印象派の絵画ばかりを見ていた。ボストン美術館は、二〇世紀までのアメリカンアートとヨーロッパ印象派、ポスト印象派の作品、それにエジプト美術が特に充実しているとのことであったが、記憶に残っているのは印象派の作品と東洋美術の浮世絵の作品であった。印象派及び後期印象派の作品で有名なものは下記の通りである。 クロード・モネ      『着物をまとうカミーユ・モネ』 一八七五 - 七六年              『ルーアン大聖堂(太陽の効果)』 一八九四年              『ルーアン大聖堂(正面・夜明け)』 一八九四年              『睡蓮』 一九〇五年 メアリー・カセット    『座敷席にて』 一八七八年 ピエール=オーギュスト・ルノワール    『ブージヴァルのダンス』 一八八三年 フィンセント・ファン・ゴッホ   『郵便配達人ジョセフ・ルーラン』 一八八八年 ポール・ゴーギャン    『我々は何処から来たのか、我々は何者か、               我々は何処へ行くのか』 一八九七—九八年    上記の