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「マーケティング部門で」

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  香港在勤で一番充実し楽しかったのは一九八七年一二月からのマーケティング部門担当の二年半であった。一九八八年二月には最大の取引先である K 社の役員と共に販売先の汕頭を O 副董事長と共に訪問した。そして廣安銀行と富士銀行との合弁二〇周年記念パーティ、毎旧正月における百近くのテーブルに顧客を招待してのスプリング・ディナー、我が家にマーケティング部門のメンバーと家族を招待しての旧正月の接待。オーナー役員とのタイへのビジネス旅行、マーケティング部門の上海蟹パーティ、行内サッカー大会での優勝、ドラゴン・ボートの応援、マカオ・広州・東莞への工場見学を兼ねたビジネス旅行など、思い出は数えればきりがない。 歴史的な事件としては、何といっても一九八九年六月四日の天安門事件であった。 Spring Dinner

「香港での勤務」

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二度目の海外勤務となった。一九八七年五月に、まずは引継の為に一週間香港へ出向いた。啓徳空港が近づき、町の家並みがはっきりとわかるようになる。まさに印象は雑然とした街だ。一階が商店街で二階以上が住居階となっているらしいビルが多く、そのほとんどが窓から洗濯物を吊り下げている。 出向先の廣安銀行は地場銀行であり、セントラル地区の中央市場のそばにその本店があった。私の担当業務は当初はコーポレイト・プラニング部であったが、後にマーケティング部、そして審査・国際部門と三つの協理( CHIEF MANAGER )を担当した。 住居は日本人学校から近い塞西湖(チョイサイウー)の寶馬山道(ボウマーサントウ)にあるブレーマー・ヒルズという高層マンションである。マンションは三十七号棟(サムサップチャホウ)であり、その二〇階の B 室が我が家であった。 啓徳空港を見下ろす リビングルームのテラスからは、正面真下に啓徳空港を見下ろすことができ、飛行機の発着するのが見えた。眺望は素晴らしかった。 

「言葉のオアシス その2」

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<一九八三年一〇月から、一九八七年五月までの読書>  「学道の人は人情を棄べきなり。人情を棄ると云ふは、佛法に随ひ行くなり。」 「玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁となる。いづれの玉か初より光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し錬磨すべし。」           道元禅師 懐奘編 和辻哲郎校訂 『正法眼蔵随聞記』   「学問の道は気質の陶冶にあり。知識の収集にあるのではない。」          司馬遼太郎  『峠』   「一切は変化し流転してやまぬ。われわれはこの永遠の流転の中にあって、何か流転しないもの、動かないもの、常住静かに渝ることなく存在するものを無意識に求めているのではないか。」 「非常に美しいものは、必ずわれわれを讃嘆のあまり沈黙させずにはおかぬということを忘れてはならぬ。」           高橋 義孝  『すこし枯れた話』  「光を所有することで自己を改造したいという欲望。それが愛である。」 「愛が人生に豊かな収穫を与えるためには、その愛が理性に耐えうるもの、そして時間に耐えうるものでなくてはならぬ。」             福永 武彦   『愛の試み』 スクロヴェーニ礼拝堂 パドヴァ (大塚国際美術館)

「一九八三年から一九八七年までの読書」

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名古屋の柳橋支店勤務開始の一九八三年一〇月から、目黒支店勤務終了の一九八七年五月までの読書は、支店勤務で多忙であったせいか、本当に少ない。 『正法現蔵随聞記』 懐奘編 和辻哲郎校訂  『峠』       司馬 遼太郎 『すこし枯れた話』    高橋義孝     『旅のなか』    立原正秋 『旅の余白』    吉村貞司        『花と風』     秦恒平 『愛の試み』    福永 武彦       『ノルウェイの森』 村上 春樹   若狭 三方五湖

「目黒から香港へ」

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一九八五年一一月に名古屋の柳橋支店から目黒支店へと転勤となった。 K 支店長に半年ばかりお仕えし、一九八七年四月の転勤までは A 支店長にお仕えした。時は不動産バブルの真最中であり、多忙なうちに一年半が過ぎた。思い出としては、行内旅行で中尊寺や厳美渓に行ったことや、クリスマス・パーティなどがある。 一九八六年三月には、 K 家で四家族親子全員集まってのオーク・ヒル会を開いた。八月には軽井沢の保養寮に遊び、また同月に広島の父母と鴨川への一泊旅行を楽しんでいる。一九八七年三月には浦安にディズニー・ランドが開園し、市民デイには家族全員で朝から夜の花火までまる一日遊興した。   そして海外への内示があり、香港の合弁銀行への出向であった。   鴨川グランド・ホテル

「「壷中の天」の投稿」

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銀行の交流誌に『裾野』というのがあり、目黒支店時代に執筆のご指名を頂き、下記の投稿をした。   「名古屋出身で東洋学を基本にした人物評論家に伊藤肇という人がおり、その人の『帝王学ノート』を読んだのは、柳橋支店赴任直前であった。その本で伊藤肇の師であった安岡正篤が中国の故事から作った六中観というものがあることを知った。死中有活、苦中有楽、忙中有閑、壷中有天、意中有人、腹中有書がそれであるが、中でも壷中有天に強く惹かれた。昔中国の如南の町の役人が一日の勤務を終え大通りを眺めていると、薬売りの老人が店仕舞いの後で店先の大きな壺の中に入っていくのを見た。不思議に思った役人が翌日その老人に問い質すと、老人は已無く役人を壺の中に同行した。壺の中は広々とした別天地で美酒佳肴に満ちており、役人は心ゆく迄愉しんでまた地上に還ってきたという。これが転じて壷中天 あり とは現実の世俗的生活の中に自らが創っている別天地の愉しみの謂いとなった由である。 人はさまざまの壷中の天を持っておりそれを糧として世俗的生活を過ごしているわけであるが、私が名古屋において自らの壷中の天に付加し得たものを回顧してみると次の通りである。昭和美術館で見た長次郎の黒楽茶碗、犬山有楽苑の如庵、湖北渡岸寺の十一面観音、薩摩焼の鉢に植えられた小盆栽、パブロ・カザルスの『鳥のうた』、エゴン・シーレの絵画、デュビュッフェとポロックのモダン・アート、黒岩重吾の『落日の王子』と城山三郎の『冬の派閥』、それと小唄少々。以上が特に印象深いものである。これらの殆んどは名古屋で親交いただいた方々からお教えを受けたものばかりである。つまり人との邂逅によって私の壷中の天も些かの広がりを得たと思われるのである。ただ私の場合あまりに興味の対象が拡散しすぎており、個々の領域の広がりと深さを考えるとき、自らの中に真に壷中の天と呼べるものがないことに内心忸怩たるものがある。名古屋で親交を得た方々は皆それぞれに真の壷中の天を有しておられ、酒を酌み交わす中で組めども尽くせない味わいがあり、その方々の壷中の天はひとつの慥かな小宇宙を形成していたという感を今にして思う次第である。 伊藤肇は「いかなる壷中の天を持っているか、これがその人物の器量を決定する」と断じている。自らの壷中の天をひとつの慥かな小宇宙へと昇華させていきたいと念じている今日この頃

「名古屋の八事にて」

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  一九八三年一〇月に名古屋の柳橋支店に転勤した。家庭寮は八事であった。車は取引先N社 のスタンザに乗り換えた。八事には興正寺があり、買い物はいつもジャスコであった。 名古屋にいたのは一九八三年一一月から一九八五年一一月の二年間であったが、その間東山動物園、一九八四年夏には志摩観光ホテルに泊まって、伊勢神宮参りをした。ホテルのシーフードが宿泊料金より高かったのは、子供たちがアワビのステーキを食べたからである。秋にはニューヨークでご一緒だった K 家と明治村を訪れた。 一九八五年夏には北陸に旅行をし、東尋坊、金沢の兼六公園、越前海岸での海水浴を楽しみ、それから神子に寄った。妻子を実家に預けて、帰路に湖北の十一面観音を拝観して回った。石道寺、鶏足寺、渡岸寺を周ったが、渡岸寺の十一面観音像の見事さは感銘を受けた。 その他では子供二人を連れて清洲城を訪れたり、家族で郡上八幡にドライブしたりした。郡上八幡では古城を見ると共に、日本名水百選の宗祇水を見たが、名水の滾々と湧くのが印象的であった。帰りには鮎を食べた記憶がある。また瀬戸市にある曹洞宗の雲興寺を見て、犬山城に周って天守閣に登り、織田有楽斎で有名な有楽苑の茶室を拝観。そのあと犬山モンキーパークで子供たちを遊ばせた。又奈良の義弟の所に遊びに行き、秋篠寺、慈光院、中宮寺、明日香の石舞台などを車で周ったこともあった。 名古屋の柳橋支店の行内旅行では、一九八四年には信州のビーナスラインを周遊し白樺湖を愉しんでいる。また一九八五年には浜名湖に一泊旅行をし、浜松市フラワー・パークや奥浜名湖の竜ケ岩洞を観光した。 それ以外では、この支店には、代々小唄を習う決まりがあり、月一回業後の三十分、師匠の三味線に合わせて小唄を習った。『梅は咲いたか』『かみなりさん』『どうぞ叶へて』の三つの小唄を覚えて、師匠の小唄の会において皆さんの前で唄ったことがある。     『どうぞ叶えて』   どうぞーおぉー 叶えて くだしゃんせぇー   妙見さんにー 願かけぇえてぇ   帰る道にもー あの人にー   逢いたぁーいー 見たぁあいー 恋いぃしやぁーとー   こっちーばかりでー さきゃあしらーぬー   えぇー しんきらしいじゃあー ないぃーかいーなー 上記にニューヨーク以来の想い出を詳しく書くことができたの