「太田 蜀山人の狂歌」

大學ではサッカー部に入ったが、サッカー部時代の合宿生活で、印象深い思い出がある。合宿の打上げ会で、二次会は医学部の先輩の知っているスナックへ行った。そのスナックは医学部出身の医者がオーナーで、新しく出来たばかりであった。壁は真っ白で、そこに落書きができるようになっており、オーナーとその医者仲間がサッカー部の誰でも、何かいい言葉を書いてみろと言う。そこで私が手を上げて、太田蜀山人の次の狂歌を書いた。

 「世の中に酒と女は仇なり どうぞ仇に巡り逢ひたい  太田 蜀山人」

  お医者のオーナーグループからやんやの喝采を受け、その夜の我々の勘定はそのグループよりのご馳走ということになった。そのスナックの名前は、忘れもしない「アルト・ハイデルベルグ」であり、ハイデルベルクは香港勤務時代に初めて欧州旅行をしたときに、一泊したドイツの大学都市であった。 


<太田 南畝> 1749年~1823年

天明期の代表的文人、狂歌師である。御家人として、勘定所に勤務、随筆・狂歌・漢詩を多く残した。


椿山荘




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