「中学生時代の『丸』」
中学生時代には、本とのかかわりはあまりなく、一番上の谷岡の義兄が雑誌『丸』の愛読者であり、読み終わった雑誌を、私たち兄弟に送ってくれていた。その『丸』を読むというより、写真を見ることで帝国海軍の軍艦の勇壮さと機能美に惹きつけられ、かなりの軍艦名を覚えた。『丸』とは別に日本帝国海軍艦船写真集を持っていた。その本には一九三七年五月の英国王ジョージ六世の戴冠記念観船式が載っており、それに日本帝国海軍の妙高型重巡洋艦の「足柄」が参加していたが、ドイツの最新鋭ドイッチュラント型装甲小型戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」と並んで引けを取らない「足柄」の雄姿に、心踊らせたものである。「足柄」の規模と「グラーフ・シュペー」の規模を比較すると、下記の通りである。前記が「足柄」、後記が「グラーフ・シュペー」である。
就役時期 一九二九年:一九三六年 基準排水量 一三〇〇〇トン:一二一〇〇トン
全長 二〇三メートル:一八六メートル 速力 三五・五ノット:二八・五ノット
航続距離 一三〇〇〇キロ(一四ノット):一六五〇〇キロ(一〇ノット)
主砲 二〇センチ三連装五基:二八・三センチ三連装二基
乗員 七〇四名:一一五〇名
一九三七年の戴冠記念観船式には英国から重巡洋艦「エクセター」も参加していた。重巡洋艦「エクセター」は 一九三一年就役の排水量九〇〇〇トンの重巡で、ポケット新鋭戦艦として大西洋で輸送船狩りに大活躍していた「グラーフ・シュペー」を一九三九年にラプラタ沖海戦で捕捉して、砲撃で戦闘不能とし、「グラーフ・シュペー」を中立国ウルグアイのモンテビデオ港に逃げ込ませた。しかし英国に近いウルグアイは七二時間の修理期限しか与えず、「グラーフ・シュペー」は修理もできないまま四〇名の乗組員で出港し、ラングスドルフ艦長は無理やり乗務員に降ろされて、艦と運命を共にしなかった。しかし、その後ホテルの部屋で自裁した。これは『戦艦シュペー号の最期』という映画で有名となったが、
このいきさつには続きがある。一九四二年に「エクセター」は太平洋の戦場に来ており、スラバヤ沖海戦で日本海軍の重巡四隻(那智、羽黒、足柄、妙高)の砲撃と水雷で撃沈された。その後重巡「足柄」は終戦直前まで生き残っていたが、一九四五年六月に米潜水艦の雷撃により沈没した。なお海上自衛隊のイージス護衛艦のあたご型二番艦に「あしがら」がある。就役二〇〇八年、排水量七七〇〇トン、全長一六五メートル、速度三〇ノット以上、乗員三〇〇人である。中学生であった当時には、まだ本当に戦争の悲惨さを理解しておらず、只勇ましい格好良さで海軍の軍艦の魅力に引き付けられていたのであろうと思う。
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