「箴 言」

箴言と言えば、広島の幟町小学校のF先生が卒業時に書いて下さったベートーベンの手紙の中の言葉

Durch Leiden Freude. 苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」

と、広島大学の政経学部の商法ゼミナールのH教授が卒業時に贈って下さった伝教大師最澄の言葉

「一隅を照らす」

をいつも思い出す。短い箴言が、長い人生の針路を指示してくれることもありうることは、いわばその箴言が言霊に近くなっているのかもしれない。言葉というものは不思議なものである。あるものやことに関しては、それを表現する言葉を知らなければ、その人にとって世界にそれは存在しえず、その言葉を知っているからこそ、それはその人にとって世界に存在するのである。聖書のヨハネ福音書に「初めに言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」は上述のことを著わしてもいる。その意味で言葉を沢山知っていること、つまり語彙の豊富なことは、それだけその人間の感情や理性が豊かであることに他ならない。言葉は単なる文字ではなくて、それは一つの世界を有しているか、もしくは表しているものである。言葉を多く知っているということは、それだけ沢山の世界を持っているということに他ならない。その人の世界は語彙の豊富さに応じてより幅の広いものとなる。そして言葉つまり語彙を豊富にするためにも読書は大切なことである。読書を通じて語彙を豊富にすることで、人はその生きる世界を広げうることができるのである。

 また読書は、特に小説などにおいて、人生の疑似体験を経験させてくれ、また様々な登場人物の感情表現を知ることで、感受性を豊かにしてくれる。そして何よりも大切なのは、読書における感動で、人の人生や生き方を変えることすらあることである。その感動を長く持続するために、高校生の頃からか、感動した文章には傍線を引くことが習慣となった。やがてそれは三六歳の頃からは、読書により感銘を受けた文章をノートに書き写すという作業となったのであった。このエッセイ『言葉のオアシス』は、そのノートにつけた名前から採っているものである。

長谷寺の舞台



 

コメント

このブログの人気の投稿

『かくれ里』 白洲正子 「神子の山桜」

「愛と感謝とで」(ノートの一つ目)

「洋画 キリスト教関連」