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「ナイアガラからレイク・プラシッド 」その1

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  一九七六年の七月には担当業務はオペレーションの PAYING & RECEIVING SECTION となり、そこでは業務上のトラブルで思わぬ苦労をした。帰国までこのオペレーションで勤めることとなる。  プライベートでは一九七六年の六月には、長男を連れて初めて YANKEE  STADIUM に野球の観戦に行った。長期休暇は九月に取得して、 I 家、 T 家とご一緒にキャッツキルに泊まって、子供たちを預けて、大人はゴルフを楽しんだ。 そこから我が家は NEWYORK THROUGH WAY を北上して、ナイアガラの米国側に着いた。カナダ側のスカイロン・タワー・レストランでランチを食べて、カナダ側のナイアガラ瀑布を見た。巨大な幅広い水のベルトが目の前を真っ逆さまに落ちてゆく様は、筆舌に尽くし難い。滝壺のあたりでは霧の乙女号 MAID OF THE MIST が瀑布すれすれに航行している。エルトン・ジョン風のサングラスをかけて、まさにその当日に二、三歩生まれて初めて歩いた長男には、ナイアガラ瀑布を見た記憶は残らないであろう。 ナイアガラからトロントの町に入り、市庁舎、オンタリオ州議事堂、白亜の豪華な邸宅 CASA ROMA を見て回り、セント・ローレンス川沿いに車で走って、サウザンド・アイランドのコテージ風の宿に泊まる。 ナイアガラ瀑布

「ボストンへの旅」

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  一九七六年の一月一九日に長男が生まれた。長男の誕生に際しては色々な人からお祝いの品を頂いたが、 I 家から頂いたピーター・ラビットのぬいぐるみと、 I 家から頂いたプラスチック製のロコモーティフは今でも残っており、ロコモーティフの方は四人の孫たちがいまでもねじを巻いて動かして、遊んでいる。四月にはライ・ビーチへ連れて行ったが、もう泳いでいる人たちがいるのには驚いた。ゴルフは MAPLE MORE GOLF COURSE にウェストチェスターの同僚たちとよく出かけた。自宅のすぐそばの BRONX RIVER PARKWAY には長男を連れてよく遊びに行ったが、新婚さんの写真を写す格好の場所でもあった。  五月にはボストンに行った。長男はまだ四ヶ月であり、自動車用のクリブに乗せて連れて行ったが、クーラーがないので暑くて大変であった。 OLD STATE HOUSE 、マサチューセッツ州議会議事堂、ジョージア王朝風のパーク通り教会、キングス・チャペル(英国国教会)、旧市庁舎とベンジャミン・フランクリン像などを見て回り、それからボストン美術館へ行った。当時の私の西洋美術認識は印象派の域を出ていなかったので、印象派の絵画ばかりを見ていた。ボストン美術館は、二〇世紀までのアメリカンアートとヨーロッパ印象派、ポスト印象派の作品、それにエジプト美術が特に充実しているとのことであったが、記憶に残っているのは印象派の作品と東洋美術の浮世絵の作品であった。印象派及び後期印象派の作品で有名なものは下記の通りである。 クロード・モネ      『着物をまとうカミーユ・モネ』 一八七五 - 七六年              『ルーアン大聖堂(太陽の効果)』 一八九四年              『ルーアン大聖堂(正面・夜明け)』 一八九四年              『睡蓮』 一九〇五年 メアリー・カセット    『座敷席にて』 一八七八年 ピエール=オーギュスト・ルノワール    『ブージヴァルのダンス』 一八八三年 フィンセント・ファン・ゴッホ   『郵便配達人ジョセフ・ルーラン』 一八八八年 ポール・ゴーギャン    『我々は何処から来たのか、我々は何者か、               我々は何処へ行くのか』 一八九七—九八年    上記の

「世界貿易センターからの夜景」

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  ニューヨーク支店での仕事は、当初は輸出入のドキュメンタリー部門を担当したが、次いで日系企業の貸付課の方へ担当替えとなった。 オフィスはマンハッタンのミッド・タウンの方に面しており、エンパイア・ステート・ビルディングやクライスラー・ビルディングそしてブロードウェイ辺りの繁華街の灯りが、仕事など辞めて繰り出して来いとばかりに燦然と煌めいており、その夜景の美しさに讃嘆しながら、仕事を遅くまでしたものであった。夕食は階下のレストランに食べに出かけることもあったが、 N さんの持参してきた日清のカップ・ヌードルで済ませることが多かった。ニューヨーク支店勤務と言えば、思い出は色々とあるが、世界貿易センター・ビルから眺望したマンハッタンの美しい夜景は忘れることができない。  このビルを入れて写した写真は、本当に数少ない。近くに在っては、大きすぎてその全景を撮影できなかったことも、写真の少ない理由の一つであろう。2001年の同時多発テロ事件で、かっての同僚二人も含めて、多くの銀行の仲間を失ったのは、残念であり、哀切の極みであった。 夜のエンパイア・ステート・ビル

『ピアノ協奏曲第二一番』 モーツァルト

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  この協奏曲は、モーツァルトがウィーンに滞在していた一七八五年に作曲された第二〇番、第二一番、第二二番の二番目に作曲された。モーツァルトはその時二九歳であり、モーツァルト自身によりウィーンのブルク劇場で一七八五年三月一〇日に初演されている。 諸井誠の『ピアノ名曲名盤一〇〇』によれば、「映画 ELVIRA MADIGAN (短くも美しく燃え)でバックグラウンド・ミュージックに用いられたアンダンテ(第二楽章)が広く知られており、その美しさには筆舌を尽くし難い、最良のモーツァルトの高雅なまでに洗練されたリリシズムが感じられる」と著わしている。 ペライアのレコードのジャケットの筆者である ARIANNA CHOLMONDELEY は、このアンダンテを下記の如くに表現している。 “The romantic Andante provides immediate contrast to the first movement through its use of muted strings, pizzicato bass, and extended cantabile melody accompanied by ceaseless triplet. Mozart maintains classic equality and balance between the orchestra and soloist by announcing the thematic material in the orchestra, repeating it in varied form in the solo part and, then, finally allowing the orchestra and piano to rework it together.” 「ロマンティックなアンダンテは、静かな弦、ピチカート(弦を指で弾く)ベース、および絶え間ないトリプレット(三連符)を伴う延長されたカンタービレのメロディーの使用を通じて、最初の楽章に即座に対照を与えます。 モーツァルトは、オーケストラの主題を表明し、ソロパートでさまざまな形でそれを繰り返し、最終的にオーケストラとピアノが一緒にやり直すことにより、オーケストラとソリストの古典的な平等とバランスを維持します。」

「モーツァルトのピアノ音楽」

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  ニューヨークでは結局モーツァルトのピアノ音楽が一番気に入ったので、ドイツ・グラモフォンのレコードも一番沢山購入したのは、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲であった。その他のレーベルも加えて、ピアニストではクリストフ・エッシェンバッハ、グレン・グールド、クララ・ハスキルそしてディヌ・リパッティなどのレコードが多い。それ以外では、マウリチオ・ポリーニ、フリードリッヒ・グルダ、アルフレッド・ブレンデル、ペーター・ゼルキン、ロベール・カサドシュ、クラウディオ・アウラ、エドウィン・フィッシャー、ワルター・ギーゼキング、マレイ・ペライアなどの弾くモーツァルトのピアノ曲を購入している。 最後のマレイ・ペライアは米国人であり、何と出身は私が在米中に住んでいたウェストチェスター・カウンティ〈郡〉のタカホの手前の駅で、長男と次男が生まれたブロンクスビルの町であった。年齢も一九四七年生れと、私より一歳年下である。レコードは下記の通りである。 PERAHIA PLAYS AND CONDUCTS MOZART   PIANO CONCERTO No21 K467         MURRAY PERAHIA   ピアノ・指揮  PIANO CONCERTO No9 K271      ENGLISH CHAMBER ORCHESTRA このレコードのジャケットには、ピアノ協奏曲第二一番について、私が拙著『日本美への彷徨』で引用したアインシュタインの言葉がより詳細に表記されている。 “The whole concerto is one of the most beautiful examples of Mozart’s iridescent harmony and the breath of domain embraced in his conception of the key of C major.  -----When one listens to such a work, one understands why Mozart wrote no symphonies in the earlier Vienna years, for these concertos are symphonic in the highest sense, and Moza

「ドイツ・グラモフォンのレコード」

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  ニューヨーク支店にはクラシック愛好家が多く、多少ともクラシックを聞いておかなければ会話に参加出来ない時があった。また日本では高価なドイツ・グラモフォンの LP レコードが、 SAM GOODY というお店で割安に購入できるとのことであった。しかしどの作曲家のどの演奏家によるレコードを買ったらよいのか、皆目わからない。音楽の中ではピアノ音楽が、わかり易いと思っていたので、最初に諸井誠の『ピアノ名曲名盤一〇〇』という本を購入して、それに沿って少しずつ LP レコードを買い始めた。昭和五一年の秋頃からである。購入場所は SAM GOODY が一般的で、時にコルベッツ等の百貨店でも購入している。ドイツ・グラモフォンのレコードが日本では二〇〇〇円から二五〇〇円の時代に、米国では 5 ドル弱であった。為替が一ドル三〇〇円弱であったから、円換算で一五〇〇円と安かったのを覚えている。その他のレーベルは、 LP で三ドル弱であった。 音楽関係の本で、米国で購入したものはあまり多くなく、『名曲をたずねて』上・下巻 神保璟一郎 角川文庫、『ピアノ名曲名盤一〇〇』 諸井誠 音楽の友社、『音楽を愛する友へ』 EDWIN FISCHER 佐野利勝訳 新潮文庫、『主題と変奏』吉田秀和 中公文庫、『一枚のレコード』吉田秀和 中央公論社 くらいである。 音楽というものは、もともとは楽器や人間の声で共生集団に霊感やパワーを与えるために創り出され、やがてそれは神を讃えるための宗教音楽となり、富裕な王侯・貴族を中心に楽しまれてきたが、市民生活の充実に伴い、市民のための音楽というものに移り変わってきた。楽器も打楽器・管楽器・弦楽器・チェンバロ・ハープシコード・ピアノそして現代の様々な楽器へと進化してきている。 クラシック音楽に関していえば、自然界や人間界における様々な現象や心象を、楽器や歌手、コーラスなどにより、音による抽象的な美と感動として表現するものとなっている。したがってその抽象性を言葉で表すのは困難を伴うが、吉田秀和はいとも簡単に音感と言葉の境界線を乗り超えて、音楽を文章化してしまう達人であると感じた。 オーク・ヒル(Westchester,NY)

「一九七五年のマンハッタン探索」

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  当時最新鋭のエルモの八ミリビデオを日本から持ち込んで、ニューヨークの六年間の思い出を写しているが、一九七五年には夏季の旅行はしていない。マンハッタンの中での探索が多かったようである。初めてのフレンチ料理でエスカルゴを食べたこと、リンカーン・センターで行われていた MOSTLY MOZART で CHRISTOPH ESCHENBACH が演奏と指揮をするピアノ曲を聞いたこと、ラジオ・シティのショウを観劇、バッテリー・パークの散策、 EMPIRE STATE BUILDING に登りマンハッタンの夕景を楽しんだこと、メトロポリタン美術館の別館であったクロイスターの拝観、五番街の SACKS FIFTH AVENUE や BLOOMINGDALES 等の百貨店、そして TIFFANY でのウィンドウ・ショッピング、そして ROCKFELLER CENTER や ST. PATRICK CHURCH を見て回ったりした。  また同じオークヒルのお仲間と、公園でバーベキューをよく楽しんだことも、今となってはいい思い出である。 遠出としては、ハドソン川沿いのタリー・タウンの北側の町スリーピー・ホロウにある PHILIPSBURG MONOR 。ここは一七〇〇年代のオランダ人の商人の館で植民地時代の雰囲気を味わえる場所であった。あとは二、三回ほど行ったと思われるニュージャージー州にあった JUNGLE HABITAT 。それに秋に K さん、 K さん、 N さんとご一緒したロング・アイランドにある COMMACK HILLS GOLF CLUB でのゴルフなどである。 このエルモのビデオは五分間の長さのフィルムしか撮影出来ず、少しずつしか写せないもののであったが、フィルムは現像してテープでつないで大きなリールに巻いて、映写していたが、映写機の販売が中止となって、中古の映写機を購入して来てはまた壊していた。ついに中古も販売が無くなり、フィルムのみ保管していたが、ある時少し費用は掛かったが、それを DVD に移してもらって、今はテレビで再生できるようになった。 公園でのバーベキュー