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「川端文学について」

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  高校生時代の読書としては、そんなに多くの本を読んだ記憶はないが、なぜか新感覚派の横光利一の『旅愁』に感動したことがある。「マルセーユつれしゃるまん ( Très Charmant ) 覚えけり」。歴史と文化を勉強に行った矢代のパリやスイスでの千鶴子への慕情、伊勢神宮への郷愁など、ヨーロッパへの憧れを覚えたものであった。 その後横光利一に関しては、『機械』などを読みかけたがあまり興味がわかず、同じ新感覚派である川端康成の本を読み始めた。『伊豆の踊子』から入って、『古都』『美しさと哀しみと』『雪国』『みずうみ』などを、受験校であった広島の修道高校に通う勉強の合間に、主として勉強を一段落させて、深夜に読んでいたような記憶がある。 川端の『山の音』はさすがにその味わいがよくわからなかった。幼くして父母と死別し、小学生になってからは祖父と二人の生活で、家族の本当の情愛を知らない孤独な環境で育った川端は、それだけ特に母性的愛情に飢えていたといえる。それゆえに母性的なものへの思慕は強烈で、又女性の美しさへの憧憬はいや増したのであろう。そうした環境で育まれた美的感覚と研ぎ澄まされた文章力に感銘を受けたものであった。 円山公園の枝垂れ桜

『虹いくたび』 川端 康成

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「米原あたり、琵琶湖のむこうに冬の虹が見える。」 「その人の生きてきた時間の深さ、その人の心の届く時間の深さは、その人の深さである。」 「京都の女は足がきれいで、唇がやわらかい。」 「一輪の花美しくあらば、われもまた生きてあらん。」 この本に出てくる京都は、下記の通りである。  都踊り 大徳寺 (聚光院 孤蓬庵 総見院 龍翔寺 高桐院) 桂離宮  銀閣寺 法然院 天龍寺 安楽寺 霊鑑寺 若王寺 南禅寺 辻留   渡月橋 嵐山 小倉山 法輪寺の虚空蔵 大徳寺 高桐院      

「二ーバーの祈り」 ラインホルド・ニーバー

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  後にO支店の時に、取引先の社長から教示された片言隻句に「ニーバーの祈り」というものがあり、この言葉には随分と助けられた。苦しい時に逃げようとする弱さをどうにか抑ええて、難問と立ち向かえる勇気を与えてくれたのは、この言葉のお蔭である。「 Serenity Player 」 と言われるこの言葉は、米国のバルト神学者ラインホルド・ニーバーの残したものと言われる。英語では様々な表現で表されているが、私の最初に習ったものを下記に表示する。     “Oh God, give us serenity to accept what can’t be changed, give us courage to change what to be changed and give us wisdom to distinguish the one from the other.”  「神よ、変えることができないものを受け止める冷静さと、変えるべきものを変える勇気と、その前者と後者を見分ける智慧をお与えください」          ラインホルド・ニーバー      まだ人生の何たるかを知らない年代で、様々な内容の小説や本を読むということは、人生を疑似体験し、生きることの意味合いを想像するという意味で、大変意義のあることだと感じる。 瑠璃光寺(山口)

『愛と死』 武者小路実篤

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  『愛と死』で滂沱の感涙を流した個所は次の通りである。場面は主人公・村岡が先輩の文筆家・野々村の妹であり、許嫁である夏子の流行性感冒による急死の電報を、フランスより帰国途上のシンガポールにおいて受け取るところである。ボーイが持ってきた電報の内容は、下記の通りであった。 「ケサ三ジ ナツコリュウコウセイカンボウデシス カナシミキワマリナシ スマヌ ノノムラ」  まさに夏子との再会と結婚という天国を控えていたはずの主人公・村岡に、神が下したのは夏子の死という地獄の苦しみであった。なぜ自分にこんな不条理が、試練が与えられなければならないのだろうかと思うことは、人生で幾度もあるものである。その不条理や試練は、変えられないものである限り、決してそこから逃避するのではなく、しっかりと受け止め、我慢強く耐えて、そして乗り超えなければいけないものである。 雨の新宿御苑の桜

「箴 言」

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箴言と言えば、広島の幟町小学校の F 先生が卒業時に書いて下さったベートーベンの手紙の中の言葉 「 Durch Leiden Freude . 苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」 と、広島大学の政経学部の商法ゼミナールの H 教授が卒業時に贈って下さった伝教大師最澄の言葉 「一隅を照らす」 をいつも思い出す。短い箴言が、長い人生の針路を指示してくれることもありうることは、いわばその箴言が言霊に近くなっているのかもしれない。言葉というものは不思議なものである。あるものやことに関しては、それを表現する言葉を知らなければ、その人にとって世界にそれは存在しえず、その言葉を知っているからこそ、それはその人にとって世界に存在するのである。聖書のヨハネ福音書に「初めに言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」は上述のことを著わしてもいる。その意味で言葉を沢山知っていること、つまり語彙の豊富なことは、それだけその人間の感情や理性が豊かであることに他ならない。言葉は単なる文字ではなくて、それは一つの世界を有しているか、もしくは表しているものである。言葉を多く知っているということは、それだけ沢山の世界を持っているということに他ならない。その人の世界は語彙の豊富さに応じてより幅の広いものとなる。そして言葉つまり語彙を豊富にするためにも読書は大切なことである。読書を通じて語彙を豊富にすることで、人はその生きる世界を広げうることができるのである。  また読書は、特に小説などにおいて、人生の疑似体験を経験させてくれ、また様々な登場人物の感情表現を知ることで、感受性を豊かにしてくれる。そして何よりも大切なのは、読書における感動で、人の人生や生き方を変えることすらあることである。その感動を長く持続するために、高校生の頃からか、感動した文章には傍線を引くことが習慣となった。やがてそれは三六歳の頃からは、読書により感銘を受けた文章をノートに書き写すという作業となったのであった。このエッセイ『言葉のオアシス』は、そのノートにつけた名前から採っているものである。 長谷寺の舞台  

「中学生時代の『丸』」

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中学生時代には、本とのかかわりはあまりなく、一番上の谷岡の義兄が雑誌『丸』の愛読者であり、読み終わった雑誌を、私たち兄弟に送ってくれていた。その『丸』を読むというより、写真を見ることで帝国海軍の軍艦の勇壮さと機能美に惹きつけられ、かなりの軍艦名を覚えた。『丸』とは別に日本帝国海軍艦船写真集を持っていた。その本には一九三七年五月の英国王ジョージ六世の戴冠記念観船式が載っており、それに日本帝国海軍の妙高型重巡洋艦の「足柄」が参加していたが、ドイツの最新鋭ドイッチュラント型装甲小型戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」と並んで引けを取らない「足柄」の雄姿に、心踊らせたものである。「足柄」の規模と「グラーフ・シュペー」の規模を比較すると、下記の通りである。前記が「足柄」、後記が「グラーフ・シュペー」である。   就役時期 一九二九年:一九三六年  基準排水量 一三〇〇〇トン:一二一〇〇トン   全長 二〇三メートル:一八六メートル 速力 三五・五ノット:二八・五ノット 航続距離 一三〇〇〇キロ(一四ノット):一六五〇〇キロ(一〇ノット) 主砲 二〇センチ三連装五基:二八・三センチ三連装二基 乗員 七〇四名:一一五〇名  一九三七年の戴冠記念観船式には英国から重巡洋艦「エクセター」も参加していた。重巡洋艦「エクセター」は 一九三一年就役の排水量九〇〇〇トンの重巡で、ポケット新鋭戦艦として大西洋で輸送船狩りに大活躍していた「グラーフ・シュペー」を一九三九年にラプラタ沖海戦で捕捉して、砲撃で戦闘不能とし、「グラーフ・シュペー」を中立国ウルグアイのモンテビデオ港に逃げ込ませた。しかし英国に近いウルグアイは七二時間の修理期限しか与えず、「グラーフ・シュペー」は修理もできないまま四〇名の乗組員で出港し、ラングスドルフ艦長は無理やり乗務員に降ろされて、艦と運命を共にしなかった。しかし、その後ホテルの部屋で自裁した。これは『戦艦シュペー号の最期』という映画で有名となったが、 このいきさつには続きがある。一九四二年に「エクセター」は太平洋の戦場に来ており、スラバヤ沖海戦で日本海軍の重巡四隻( 那智、羽黒、足柄、妙高) の砲撃と水雷で撃沈された。その後重巡「足柄」は終戦直前まで生き残っていたが、一九四五年六月に米潜水艦の雷撃により沈没した。なお海上自衛隊のイージス

「いづくより」 美智子上皇后 3

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    美智子上皇后はまたその御歌の素晴らしさでも有名である。神谷光信の『須賀敦子と 9 人のレリキオ(敬虔)』という本の中にある「皇后陛下-へりくだりの詩人」の章で、次の御歌が引用されている。 いづくより満ち来しものか紺青の 空埋め春の光のうしほ  美智子上皇后 「この歌を私は酷愛する。一読して忘れがたい作品である。ここには詩人と世界のほとんど神秘主義的ともいうべき交感が歌われているように思う。」          神谷光信   神谷光信をして「酷愛」するとまで表現せしめたこの御歌は、宇宙空間における歌人の神秘体験を詠じたものであり、清らかさと明るさが宇宙全体と同時に歌人をも包み込み、満ち溢れている様子がよくわかるものとなっている。 足立美術館(島根県安来市)