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「MOMA」

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ニューヨークで次に訪れた美術館がニューヨーク近代美術館である。 THE MUSIUM OF MODERN ART(MOMA) は、マンハッタンのミッド・タウン五三丁目にあり、設立は一九二九年である。代表的な所蔵作品は、絵画に限って言えば次の通りである。  フィンセント・ファン・ゴッホ    『星月夜』 一八八九年  アンリ・ルソー           『眠るジプシー女』 一八九七年  パブロ・ピカソ           『アヴィニョンの娘たち』 一九〇七年  サルバトーレ・ダリ         『記憶の喪失』 一九三一年   などであるが、上記の中ではアンリ・ルソーの『眠るジプシー女』の記憶が一番印象的である。それというのもこの絵の絵葉書を MOMA で購入して以来、ずっと大切に保管し続けているからである。夜の砂漠に中近東風の虹色の縦縞模様の衣服を着たジプシー女が、マンドリンを傍らに眠っている。そこへ近づいてきたライオンは、ジプシー女を襲おうとするのでもなく、見守るかのように佇んでいる様子の描かれた絵画である。一枚の絵葉書のゆえに、この絵は一生忘れることのできない絵となったのは不思議なものである。 実は私が当美術館を拝観した一九七三年当時には、まだピカソの『ゲルニカ』を MOMA が預かっている時期であり、 MOMA を訪れたのもこの絵画を見るためであった。この絵はピカソがスペインのゲルニカへの爆撃を描いたものであり、一九三七年のナチス・ドイツによる世界最初の都市無差別爆撃の悲惨さを余すところなく表現している。この絵は一九三七年のパリ万博に出展されて、その後パリにあると危険なため、米国の美術館を周り、最終的に MOMA で保管されていた。一九八一年に『ゲルニカ』はスペインに返還され、一九九一年にソフィア王妃芸術センターで保管されることとなった。   「ゲルニカ」(大塚国際美術館)

「メトロポリタン美術館」

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ニューヨークで最初に訪れた美術館が、メトロポリタン美術館であった。 The Metropolitan Museum of Art 、通称 The Met は、世界最大級の美術館で、設立は一八七〇年である。設立の構想は、 一八六四 年 、 パリ で 七 月 四 日 の アメリカ独立記念日 を祝うために集まった 米国人 たちの会合の席で、参加者の一人であるジョン・ジョンストンによって提案された。その時点で米国は、美術館はおろか一枚の絵さへ国もしくは地方自治体は所有していなかったのである。 その後は基金による購入やさまざまな階層からの寄贈により、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品のほか家具・楽器・装飾品など三〇〇万点の美術品を所蔵しているという。ルーブル美術館と同じく、一日で館内を拝観して回ることは、困難である。 別館としては、アッパー・マンハッタンのハドソン川沿いにフランスやスペインの僧院を解体して造られた「クロイスターズ」があり、中世ヨーロッパ美術が展示されている。また元のホイットニー美術館の建物を借りて、二〇一六年三月よりもう一つの別館「メット・ブロイヤー」を開館しており、ピカソの作品などキュービズムを中心としたモダンアート・コンテンポラリーアートの展示も行っているようである。 主な作品で拝観した記憶のあるものは、下記の通りである。   古代エジプトのデンドゥール神殿 紀元前一世紀ころ  エル・グレコ        『トレドの風景』 一五九七年  ヨハネス・フェルメール   『リュートを調弦する女』 一六六二‐六三年頃 『水差しを持つ女』 一六六四 - 六五年頃               『眠る女』     一六六五 - 六六年頃               『少女』      一六六六 - 六七年頃               『信仰の寓意』   一六七一 - 七四年頃 尾形光琳          『八つ橋図屏風』  一七一一 - 一四年頃 ピーテル・パウル・ルーベンス   『ヴィーナスとアドニス』 一六三〇 - 三六年 ジョルジュ・ラ・トゥール  『悔い改めるマグダラのマリア』 一六四〇年 レンブラント・ファン・レイン   『ホメロスの胸像を見つめる                        

「ニューヨーク支店へ」

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  昭和四八年五月末にニューヨーク支店への転勤発令を受け、健康診断や引越し手続きなどを終えて、 PAN  AMERICAN 航空でアンカレッジ経由ニューヨークのケネディ空港へ到着したのは、六月の下旬であった。一年先輩の N さんが、 K さんと一緒に赴任した私を迎えに来て下さり、真っ赤なギャラクシーのフル・サイズ・カーでそのまま支店の夕食会の会場であるミッド・タウンの日本倶楽部へ向かった。 宿泊のホテルはミッド・タウンのウェリントン・ホテルであり、すでに先週着任されていた I さんもご一緒だった。翌日二本ある世界貿易センター・ビルの ONE WORLD TRADE CENTER  BUILDING ( WTC ) に初出勤したが、その巨大さと高さには本当に驚嘆した。先ずは一階から七八階まで三〇人乗り以上の大きさの巨大なゴンドラで登り、そこで乗り換えて八一階の当行オフィスまで行った。早速同期の E 君から、ドキュメンタリー部門の担当の引継ぎを受ける。 One World Trade Center 

「沖の石の讃岐」

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  常神半島にはもう一つ有名な島がある。それは百人一首で有名な「沖の石の讃岐」の次の和歌である。   わが袖は塩干に見えぬ沖の石の  人こそしらねかはくまもなし  二条院讃岐   この島というより岩島は、神子より塩坂の方へ戻る九十九折りの岬のあたりから見えるが、この辺りが二条院讃岐の父であった源三位頼政の所領であり、讃岐もこの若狭へ訪れているらしい。 源三位頼政と言えば、 後白河天皇 の皇子である 以仁王 と結んで挙兵をし、平等院の戦いで敗れて自害 をしている。 花咲かば告げよと言ひし山守の      来る音すなり馬に鞍置け             源頼政 私の好きな和歌である。 小石川植物園

『かくれ里』 白洲正子 「神子の山桜」

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  これは随分後の話となるが、平成一三年頃に白洲正子の『かくれ里』を読んでいる時、「神子の山桜」の章に区長として義父の名前が登場していたのであった。たまたま我が家でお正月休みを過ごしていた義母に「昭和三九年頃に白洲正子が神子に来て、亡くなった義父が神子の山桜を白洲正子に案内したそうだけど覚えているか」と聞いてみたが、「さあそういえば何か偉い人が来たようなことがあった」と、曖昧な返事であった。 「若狭のどこかに『神子ざくら』といって、大そうきれいな花があることを聞いていたが、へんぴな所らしく、京都でたずねてみても誰も知っている人はいない。仕方なしに、東京の編集者さんにしらべて貰うと、それは敦賀と小浜の間につき出た、常神半島の一角にある、神子部落という村で、桜は満開だから、今日明日にも来い、ということである。電話に出たのは、その村の区長さんで、京都からくるなら、車の方がいい、敦賀に出て、国道を西へ行くと、三方という町がある、そこで聞けばわかると、ことこまやかに教えて下さった。」 「神子に近づくにしたがい、大木の桜があちらこちらに見えはじめ、塩坂、遊子、小川を過ぎ、最後の岬を回ったとたん、山から下の浜へかけて、いっきに崩れ落ちる花の滝が現出した。人に聞くまでもなく、それが名におう『神子ざくら』であった。」 「嘗ての嵐山も、ほぼこれに近い盛観だったのではあるまいか。区長さんに伺ったところによると、この桜は観賞用に植えたものではなく、ころび(桐実と書く、油をとる木)の畑の境界に植えたものとかで、村人の生活と結びついていたために、手入れもよく行きとどいた。そういわれてみると、やや正確な井桁模様に咲いており、そういう風習がなくなった今日、保って行くのは大変なことではないかと思う。  神子は古く『御賀尾』と書き、それがつまってミコと呼ばれるようになったと聞く。だが、古い歴史を持つ土地がらであってみれば、必ず神様と関係があったに違いない。」         白洲 正子  『かくれ里』 「花をもとめて」 神子桜

「『万葉のうた』 岩崎ちひろ挿絵 著者は大原冨枝」

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茜指す紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る  額田王女 紫の匂へる君を憎くあらば 人妻ゆへに我恋ひめやも  大海人皇子  大阪外国事務課へ転勤して以来、岩波新書の『万葉秀歌』上下・斎藤茂吉著を購入して、万葉時代の歴史を紐解きながら、万葉集の中でも相聞歌や挽歌の秀歌を暗唱できるように読みこんでいた。そして生涯の伴侶に最初に贈ったのが、万葉集の相聞歌であった。  妻の実家は、若狭の三方五湖の先に延びている常神半島にある。 若狭なる三方の海の浜きよみ いゆきかへらひ見れどあかぬかも (若狭の三方湖の浜は清らかなので、行きも帰りも見るが見飽きることはない)       詠み人知らず  『万葉集』 巻七 一一七七   常神半島の由来は神功皇后を祀る常神社によるものと言われ、半島の先にある御神島には神が宿っていて、様々な厄災から人々を守ったという。『古事記』には、神功皇后が熊襲征伐に向かう時、角鹿(敦賀)を出て 淳田門(ぬたのと)で食事をしたとき、鯛が沢山寄ってきて、神功皇后がお酒を与えると鯛がまどろんで皆浮かんできたという。それ以来、常神半島辺りでは五月になると鯛がよく釣れるという「まどろみ鯛伝説」があるという。神功皇后は息長一族に属しており、古代には近江国坂田郡を根拠地にして、若狭や敦賀一帯を治めていたという。 以下は私見であるが、神功皇后の神から由来しているという説明も肯けるが、表日本であった若狭一帯は朝鮮半島からの入り口でもあり、常神や神子という名前についている神は、韓の国からの渡来人を神として受け入れたという背景もあったのではなかろうか。 神子の海辺

『古都』と『美しさと哀しみと』

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『古都』と『美しさと哀しみと』から、印象に残っているふたつの文章を書き留めておきたい。   「『壺中の天地』という話が、大むかしの中国にあることは、千恵子も知っている。その壺中には、金殿玉楼があり、美酒や山海の珍味にみちていた。壺中はつまり、俗世間をはなれた、別世界、仙境であった。数多い仙人伝説の一つである。」          川端康成  『古都』   「京都の寺院の石組の庭は、いくつか今に残って知られている。西芳寺の石庭、銀閣寺の石庭、龍安寺の石庭、大徳寺大仙院の石庭、妙心寺退蔵院の石庭などが、その主なものであろうか。なかでも、龍安寺の石庭はあまりに名高いどころか、禅学的にあるいは美学的に、ほとんど神格化されていると言っていいだろう。―――  上野音子はそのどれも見なれて頭にある。――― 西芳寺の石庭は、石庭としては最も古いし、また力強くもあるのではないか。」          川端康成  『美しさと哀しみと』 大徳寺本坊