投稿

『愛と死』 武者小路実篤

イメージ
  『愛と死』で滂沱の感涙を流した個所は次の通りである。場面は主人公・村岡が先輩の文筆家・野々村の妹であり、許嫁である夏子の流行性感冒による急死の電報を、フランスより帰国途上のシンガポールにおいて受け取るところである。ボーイが持ってきた電報の内容は、下記の通りであった。 「ケサ三ジ ナツコリュウコウセイカンボウデシス カナシミキワマリナシ スマヌ ノノムラ」  まさに夏子との再会と結婚という天国を控えていたはずの主人公・村岡に、神が下したのは夏子の死という地獄の苦しみであった。なぜ自分にこんな不条理が、試練が与えられなければならないのだろうかと思うことは、人生で幾度もあるものである。その不条理や試練は、変えられないものである限り、決してそこから逃避するのではなく、しっかりと受け止め、我慢強く耐えて、そして乗り超えなければいけないものである。 雨の新宿御苑の桜

「箴 言」

イメージ
箴言と言えば、広島の幟町小学校の F 先生が卒業時に書いて下さったベートーベンの手紙の中の言葉 「 Durch Leiden Freude . 苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」 と、広島大学の政経学部の商法ゼミナールの H 教授が卒業時に贈って下さった伝教大師最澄の言葉 「一隅を照らす」 をいつも思い出す。短い箴言が、長い人生の針路を指示してくれることもありうることは、いわばその箴言が言霊に近くなっているのかもしれない。言葉というものは不思議なものである。あるものやことに関しては、それを表現する言葉を知らなければ、その人にとって世界にそれは存在しえず、その言葉を知っているからこそ、それはその人にとって世界に存在するのである。聖書のヨハネ福音書に「初めに言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」は上述のことを著わしてもいる。その意味で言葉を沢山知っていること、つまり語彙の豊富なことは、それだけその人間の感情や理性が豊かであることに他ならない。言葉は単なる文字ではなくて、それは一つの世界を有しているか、もしくは表しているものである。言葉を多く知っているということは、それだけ沢山の世界を持っているということに他ならない。その人の世界は語彙の豊富さに応じてより幅の広いものとなる。そして言葉つまり語彙を豊富にするためにも読書は大切なことである。読書を通じて語彙を豊富にすることで、人はその生きる世界を広げうることができるのである。  また読書は、特に小説などにおいて、人生の疑似体験を経験させてくれ、また様々な登場人物の感情表現を知ることで、感受性を豊かにしてくれる。そして何よりも大切なのは、読書における感動で、人の人生や生き方を変えることすらあることである。その感動を長く持続するために、高校生の頃からか、感動した文章には傍線を引くことが習慣となった。やがてそれは三六歳の頃からは、読書により感銘を受けた文章をノートに書き写すという作業となったのであった。このエッセイ『言葉のオアシス』は、そのノートにつけた名前から採っているものである。 長谷寺の舞台  

「中学生時代の『丸』」

イメージ
中学生時代には、本とのかかわりはあまりなく、一番上の谷岡の義兄が雑誌『丸』の愛読者であり、読み終わった雑誌を、私たち兄弟に送ってくれていた。その『丸』を読むというより、写真を見ることで帝国海軍の軍艦の勇壮さと機能美に惹きつけられ、かなりの軍艦名を覚えた。『丸』とは別に日本帝国海軍艦船写真集を持っていた。その本には一九三七年五月の英国王ジョージ六世の戴冠記念観船式が載っており、それに日本帝国海軍の妙高型重巡洋艦の「足柄」が参加していたが、ドイツの最新鋭ドイッチュラント型装甲小型戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」と並んで引けを取らない「足柄」の雄姿に、心踊らせたものである。「足柄」の規模と「グラーフ・シュペー」の規模を比較すると、下記の通りである。前記が「足柄」、後記が「グラーフ・シュペー」である。   就役時期 一九二九年:一九三六年  基準排水量 一三〇〇〇トン:一二一〇〇トン   全長 二〇三メートル:一八六メートル 速力 三五・五ノット:二八・五ノット 航続距離 一三〇〇〇キロ(一四ノット):一六五〇〇キロ(一〇ノット) 主砲 二〇センチ三連装五基:二八・三センチ三連装二基 乗員 七〇四名:一一五〇名  一九三七年の戴冠記念観船式には英国から重巡洋艦「エクセター」も参加していた。重巡洋艦「エクセター」は 一九三一年就役の排水量九〇〇〇トンの重巡で、ポケット新鋭戦艦として大西洋で輸送船狩りに大活躍していた「グラーフ・シュペー」を一九三九年にラプラタ沖海戦で捕捉して、砲撃で戦闘不能とし、「グラーフ・シュペー」を中立国ウルグアイのモンテビデオ港に逃げ込ませた。しかし英国に近いウルグアイは七二時間の修理期限しか与えず、「グラーフ・シュペー」は修理もできないまま四〇名の乗組員で出港し、ラングスドルフ艦長は無理やり乗務員に降ろされて、艦と運命を共にしなかった。しかし、その後ホテルの部屋で自裁した。これは『戦艦シュペー号の最期』という映画で有名となったが、 このいきさつには続きがある。一九四二年に「エクセター」は太平洋の戦場に来ており、スラバヤ沖海戦で日本海軍の重巡四隻( 那智、羽黒、足柄、妙高) の砲撃と水雷で撃沈された。その後重巡「足柄」は終戦直前まで生き残っていたが、一九四五年六月に米潜水艦の雷撃により沈没した。なお海上自衛隊のイージス

「いづくより」 美智子上皇后 3

イメージ
    美智子上皇后はまたその御歌の素晴らしさでも有名である。神谷光信の『須賀敦子と 9 人のレリキオ(敬虔)』という本の中にある「皇后陛下-へりくだりの詩人」の章で、次の御歌が引用されている。 いづくより満ち来しものか紺青の 空埋め春の光のうしほ  美智子上皇后 「この歌を私は酷愛する。一読して忘れがたい作品である。ここには詩人と世界のほとんど神秘主義的ともいうべき交感が歌われているように思う。」          神谷光信   神谷光信をして「酷愛」するとまで表現せしめたこの御歌は、宇宙空間における歌人の神秘体験を詠じたものであり、清らかさと明るさが宇宙全体と同時に歌人をも包み込み、満ち溢れている様子がよくわかるものとなっている。 足立美術館(島根県安来市)

「橋を架ける」 美智子上皇后 2

イメージ
  「 本の中で人生の悲しみを知ることは,自分の人生に幾ばくかの厚みを加え,他者への思いを深めますが,本の中で,過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは,読む者に生きる喜びを与え,失意の時に生きようとする希望を取り戻させ,再び飛翔する翼をととのえさせます。悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには,悲しみに耐える心が養われると共に,喜びを敏感に感じとる心,又,喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。 そして最後にもう一つ,本への感謝をこめてつけ加えます。読書は,人生の全てが,決して単純でないことを教えてくれました。私たちは,複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。」     前半の美智子上皇后のお言葉は、人というものは周りの人々に橋を架けて生きてゆくのみならず、自分の内面においても自己に橋を架けることで、本当の自分を発見し自己を確立してゆく存在であることを説いておられる。また後半については、本を読むことは、読者に生きる喜びと希望を与え、また悲しみに耐える力を与えるということを、そしてまた読書は人生が単純でないこと、そして人間関係においても国同士の関係においても、我々人間存在は複雑さに耐えて生きてゆかねばならないとお話しされている。  人間存在と人間関係を深く洞察された上で、読書というものが人間に生きる喜びと希望を、そして悲しみに耐える力を与えてくれることを、美智子上皇后はご自分の人生と読書の経験の中から見いだされ、子供達への温かなエールとされておられる。クイーンズ・イングリッシュのスピーチの見事さもさることながら、そのご教養の高さと深さ、またそのご品格の高潔さと崇高さに、美智子上皇后が現在の日本に存在されておられることのありがたさを覚えないではいられない。 足立美術館

「橋を架ける」 美智子上皇后 1

イメージ
  本についての文章と言えば、美智子皇后(当時)の「 子供の本を通しての平和-子供時代の読書の思い出 」という有名な講演がある 。この講演は第二六回 IBBY ニューデリー大会(一九九八年)の基調講演 であり、その中で美智子上皇后は次のように語っておられる。 「 生まれて以来,人は自分と周囲との間に,一つ一つ橋をかけ,人とも,物ともつながりを深め,それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり,かけても橋としての機能を果たさなかったり,時として橋をかける意志を失った時,人は孤立し,平和を失います。この橋は外に向かうだけでなく,内にも向かい,自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ,本当の自分を発見し,自己の確立をうながしていくように思います。」   足立美術館

カバヤ文庫

イメージ
  本を読むということを自分で意識したのは、何歳くらいからであろうか。昭和二〇年の秋に母のお腹にいた私は、韓国(当時は朝鮮)のソウル(京城)から玄界灘を漁船で帰国し、翌昭和二一年の一月に山口県の柳井で生まれた。その産土の地である柳井の記憶はほとんどなく、記憶があるのは、広島の京橋町の京橋保育園の頃からである。 保育園時代に何か絵本で覚えているものがあるかというと、まったく思い浮かばない。覚えているのは京橋保育園を経営していた広寂寺の日曜講話であり、ある日の講話で「殺生は悪いことである」という言葉が私の幼い心に突き刺さって、それ以来肉と魚を食べたくなくなったということがあった。講話の悪しき効果により、大学生になるまでこの偏食は続いた。 当時はまだ紙芝居屋さんが自転車で各町を周っていた時代で、水あめを買って紙芝居を見るのが楽しみであった。小学校に入ってより、高学年になってからであろうか、お菓子のカバヤが景品でくれるカバヤ文庫を読んだのが、本らしきものを読んだ初めではなかろうかと思う。当時一〇円のキャラメルを買うと中に図書券が入っており、これを集めるとカバヤ文庫が貰えるのであった。今でも覚えているのは『隊長ブーリバ』と『モヒカン族の最後』と『山中鹿之助』であるが、カバヤ文庫一覧を見ると『モヒカン族の最後』ではなくて『鮮血のモヒカン族』であり、『山中鹿之助』はカバヤ文庫ではなかったようだ。一般的に少年が読む有名な本でなく、特徴のある名前であったので記憶に残っているのであろうか。それにしても一般の少年少女が読むような本は全く記憶にないということは、たぶんそれらの本は家になかったし、読んでいなかったのであろうと思う。欧米の戦闘ものや日本の講談本しか、身近になかったということであろう。 広島 縮景園(泉邸)