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「彌勒菩薩との邂逅」(ノートの二つ目)

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大学四年生の時に、立命館大学に行っていた O 君のところに遊びに行ったことがある。下宿から立命館大学衣笠キャンパスは近く、北側に少し歩けば龍安寺があったと記憶している。その学食に夕飯を食べに行ったこともある。 その折に、奈良の古寺巡りをやろうという話になり、レンタ・カーで興福寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺辺りを周った記憶がある。高校の修学旅行は京都と奈良であり、お寺巡りはしていることになっているが、毎晩遅くまで旅館でトランプをしていたこともあり、お寺巡りはスキップしてバスの中で寝ていたので、まじめな古寺巡礼は初めてであった。その最初に興福寺の宝物館で邂逅したのが、中宮寺の弥勒菩薩であった。ちょうど中宮寺が耐火の鉄筋コンクリート造りに建て直している時期であり、弥勒菩薩は興福寺の宝物館に収められていたのであった。入館してすぐのところに御仏は安置されており、一目でこの弥勒菩薩に恋に落ちたのである。( Just fell in love at a glance . )相手が人間であれば、相手にも好きになってほしいという想いが湧くが、相手が仏像であれば何の遠慮もなく、一方的に憧憬の念を抱けるというのは、素晴らしいことである。しかも相手からのお返しは期待できないから、純粋な片思いを継続できるわけである。かくして昭和四十二年・ 1967 年の秋から今に至るまで、仏像の中で最高峰は中宮寺の弥勒菩薩となっている。そしてこの時、私は古寺や仏像への彷徨に目覚めたと言える。 これがノートの二つ目です。 浜離宮恩賜公園  

「愛と感謝とで」(ノートの一つ目)

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   愛と感謝とでこの世を見る時は   この世は   美しいものだらけだ。   そして死ぬことも美しいのだ   ありがたいことだ。           武者小路 実篤  実篤はその詩集のいたるところで、人生の美と愛と歓喜について謳っている。彼がその思想を培った時代には人道主義が隆盛期であったこと、また彼自身がトルストイなどの影響のもとに白樺派に属していたということ、そのことが彼を人生の讃美者となさしめたのであろう。貴族の門に生れ生活の苦労を知らぬ彼にして、この麗しい人生肯定の詩が産まれたことは否めない。でもそれだけであろうか。  ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。キルケゴールに始まる実存主義は死の不安を説き、人生の暗さを訴えた。サルトルは人生に嘔吐感を抱き、カミュは人生における不条理性を述べた。彼らは人生を肯定したいと願いながら、結局は人生の否定的側面の虜となってしまったように思える。そして現代の思潮は主として人生の否定的側面にあるようである。彼らにとってみれば、人生は素朴に肯定できるものではないかもしれない。だが、今夜のように円かな秋の月が、レースのカーテンを透してその光を静かに部屋に投げかけている時、我々人間はその光景の美しさに、世界の壮麗さに心打たれずにいられない。生きることを愛さずにはいられない。   こよい又おんみはおぼろの光もて  しげみを谷をみたし  かくてわがこころも  ついにのこるところなく融けひろがる        ゲーテ 「月に」  実篤は人間に与えられたもので善でないものはないと言う。人間が悪だと思うものも本当は悪ではなくて、それは阿片のように人間がその程度を知らずに使用するので麻薬性を持つのであり、適度に使用すればそれは薬となるものであるという考えである。アウグスティヌスもその『告白』において、人間は神によって創られたものであるから、その性はすべからく善であり悪は存在しないと言っている。悪というのは実在するものではなくて、それは善の欠如だと書いている。そうなるとヘッセの『デミアン』に出てくるアプラクサスのように、善と悪の両者を有する神は自己消滅してしまうことになる。  亀井勝一郎は、人間は死に向かって生きていると言う。そしてその死がロシア系ユダヤ人の哲学者であるシェストフの言うように

「ムシカの集い」 読書会

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昭和三七年、大学三年生の秋ごろから、サッカー部の同期やその仲間と読書会を開こうという話となり、友人の一人が女学院大学の知り合いと連絡をとり、男女合計で十人前後の読書会を創設した。場所は胡町にある音楽喫茶「ムシカ」で毎週土曜日の夕方五時からに決まった。場所は一階の一番奥のコーナーが常連席となり、コーヒー一杯で約二時間余り談論を楽しんでいた。そして会の名前もいつか「ムシカの集い」となった。  最初は背伸びをして「朝日ジャーナル」の記事からテーマを選んで話そうと試行錯誤したが、うまくゆかないので結局は小説を選んで、それを読んで来て感想を述べあうということになった。初めに読んだ本は確かでないがヘッセの『車輪の下』であったろうか。それから順不同であるが武者小路実篤の『愛と死』、横光利一の『旅愁』、高村光太郎の『千恵子抄』、井上靖の『氷壁』、川端康成の『美しさと哀しみと』、亀井勝一郎の『愛の無常について』、ヘッセの『デミアン』、有島武郎の『愛は惜しみなく奪う』、スタンダールの『赤と黒』、カミュの『シジフォスの神話』、倉田百三の『愛と認識との出発』などであろうか。  昭和四三年の三月に、義兄の経営していた中の棚「萬歳」で解散式を行ったので、一年半弱の短い期間ではあったが、その間夏には宮島の浦の一つで一泊のキャンプを楽しんだり、また冬はスキーに行ったりして、愉しく有意義な時間を過ごせた。  この読書会では途中からひとりひとりが一冊ノートを購入して、それに今現在の自分の想いを文章に書いてそれを皆で交換するようにした。そのノートから昭和四二年の九月に私が書いたものを、二つほど下記に表記することとする。 東京ミッドタウン 檜町公園  

『モシカアル日』 原詩

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  モシカアル日、 モシカアル日、私ガ山デ死ンダラ、古イ山友達ノオ前ニダ、コノ処置ヲ残スノハ。 オフクロニ会イニ行ッテクレ。 ソシテ言ッテクレ、オレハシアワセニ死ンダト。 オレハオ母サンノソバニイタカラ、チットモ苦シミハシナカッタト。 親父ニ言ッテクレ、オレハ男ダッタト。 弟ニ言ッテクレ、サアオ前ニバトンヲ渡スゾト。 女房ニ言ッテクレ、オレガイナクテモ生キルヨウニト。 オ前ガイナクテモオレガ生キタヨウニト。 息子タチヘノ伝言ハ、オ前タチハ「エタンソン」ノ岩場デ、 オレノ爪の跡ヲ見ツケルダロウト。 ソシテオレノ友、オ前ニハコウダ ―― オレノピッケルヲ取リ上ゲテクレ。 ピッケルガ恥辱デ死ヌヨウナコトハオレハ望マヌ。 ドコカ美シイフェースヘ持ッテ行ッテクレ。 ソシテピッケルノタメダケノ小サイケルンヲ作ッテ、 ソノ上ニ差シコンデクレ。  ネットには下記の記載があるので、参考までに記述する 「 原詩の作者ロジェ・デュプラはフランスの登山家。一九五一年六月二九日、ヒマラヤの高峰ナンダ・デヴィ(七八一七メートル)にアタック隊の隊長として登頂中、同僚とともに消息を絶ちました。享年三〇歳。」

『いつかある日』 ロジェ・デュプラ

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 大学生時代に友人から教えてもらった歌で、『いつかある日』という歌がある。その原詞はロジェ・デュプラで、最初に覚えたのは深田久弥の訳詞で作曲は西前四郎の歌である。それから長い間この山男の歌を忘れていたが、一、二年前に中学、高校、大学と同窓同期で、大学ではサッカー部のキャプテンをしていた K 君から、この歌は私から教えてもらったという思い出話を聞き、再度ユーチューブで聞いてみた。すると同じ歌が違う訳詞、作曲であることが分かり、こちらの方が情緒深いものと感じるようになり、今では深田久弥の訳詞、補訳詞と作曲が南郷孝の方を主としてユーチューブで聞いている。  その最初の歌詞、補訳詞そして原詞は下記の通りである。   (深田久弥の訳詞で作曲は西前四郎の歌) 1 いつかある日 山で死んだら   古い山の友よ 伝えてくれ 2 母親には 安らかだったと   男らしく死んだと 父親には 3 伝えてくれ いとしい妻に   俺が帰らなくても 生きて行けと 4 息子達に 俺の踏みあとが   故郷(ふるさと)の岩山に 残っていると 5 友よ山に 小さなケルンを   積んで墓にしてくれ ピッケル立てて 6 俺のケルン 美しいフェイスに   朝の陽が輝く 広いテラス 7 友に贈る 俺のハンマー   ピトンの歌声を 聞かせてくれ (深田久弥の訳詞、補訳詞と作曲が南郷孝) 1 いつかある日 山で死んだら   古い山の友よ 伝えておくれ 2 母親には 安らかだったと   男らしく死んだと 父親には 3 いくら聞いても ただそれだけを   どうか友よ 伝えておくれ 4 伝えてくれ いとしい妻に   俺が帰らなくても 生きて行けと 5 息子達に 俺の踏みあとが   故郷(こきょう)の岩山に 残っていると 6 どんな時にも お前たちを   忘れたことは 決してないと 7 友よ 山に 小さなケルンを   積んで墓にしてくれ ピッケル立てて 8 俺のケルン 美しいフェイスに   朝の陽が輝く 広いテラス 9 赤く染まった 俺の墓を   踏んで友よ 登っておくれ   (原詞、訳詞者不明)

「書友との本の会」

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  このようにして M 先生から文芸全般にわたる手ほどきを受けたわけであるが、他の思い出としてはお正月に百人一首のかるた会をよくおこなったこと、生まれて初めての音楽会に連れて行って頂いたこと。曲名はブラームスの交響曲第一番で、これは事前にレコードを購入して何度か聞いてコンサートに行った記憶がある。場所は広島公会堂であった。また他の場所でリヒャルト・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーの講演を聞いたのも、 M 先生のお誘いであった。彼は父ハインリヒと青山光子の次男として東京で生まれた。クーデンホーフ=カレルギー家はボヘミアの貴族で、オーストリー・ハンガリー帝国においてハプスブルグ家に次ぐ伯爵家であった。半ヨーロッパ主義を提唱し、 EU 構想の先駆けとなった。また第二次世界大戦におけるリヒャルト夫妻のカサブランカ経由の逃避行は、映画『カサブランカ』のモデルであるともいわれている。後に「友愛思想」を説き、鳩山一郎や鹿島守之助に思想的な影響を与えている。また母光子は、ウィーンの社交界の花となり、フランスの香水ゲラン社が「ミツコ」という銘柄の香水を出している。青山光子は、 GHQ に 従順ならざる男・白洲次郎の妻で随筆家の白洲正子の骨董の先生であった青山二郎の縁戚でもあった。   M 先生とは実家から至近距離にお住まいであったこともあり、その後もずっと交友は続いており、今でも K 君と三人で書の友として、お互いに本の紹介などを行っている。 M 先生は聖母幼稚園の母親の集まりである「絵本の会」を未だ主宰されており、ますますお元気にご活躍中である。 K 君は文学に関して夏目漱石を始めとして、幅広く読み込んでおり、特に論語を中心とした漢籍に詳しく、私の読書のジャンルの幅を広げて頂いたが、昨今は源氏物語や万葉集など日本古代文学にも注力されておられる。 足立美術館(安来市)

「文芸の師匠」

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 高校三年生のクリスマスに幟町カトリック教会付属の聖母幼稚園のクリスマス会を、ダルマ・グループでお手伝いしたことがあった、幼稚園の窓のデコレーションをしたり、その時だったかどうかは定かではないが手品を少し習って、道具も借りて幼稚園生や父兄たちに見せたりしたこともある。 そうして M 先生のお宅へダルマ・グループや、後はいしころ会と合同した十六夜会で遊びに行くようになった。 M 先生からは、最初に『石川啄木詩集』を借りて、気に入った短歌をノートに書いて暗唱をしたりしていた。それ以外にも色々な文学作品をそのご紹介頂いている。音楽に関しては最初に頂いたのがクライスラーの『愛の喜び、愛の悲しみ』のドーナツ盤レコードである。それからクリストフ・エッシェンバッハの『ピアノ・ソナタ集』のLP版も頂いた。エッシェンバッハはのちに富士銀行のニューヨーク支店に転勤となって、リンカーン・センターでの「 Mostly Mozart 」でその生演奏を聴いている。それから絵画ではフランスの象徴主義の画家、ギュスターブ・モローを教えて頂いた。初めて接した西洋の画家の画集であった。 足立美術館(安来市)