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「言葉のオアシス その1」

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<日本に帰国した一九七九年六月から、柳橋支店に転勤する一九八三年一〇月にかけての読書から> 「君の眼に映ずるものが、刻々に新たならんことを。  賢者とは萬づのことに驚嘆する人を謂ふ。」            アンドレ・ジイド  『地の糧』   「自分に打ち克ち、日毎より強くなり、いくらでも特に進むことが出来ることが、私共の務めでなければならない。」 「すべての言葉や本能を軽々しく信ずるな。むしろ慎重に、気長に、神のみ旨に従って、事をはからねばならない。」 「自分を、自分以上のものに見せようとするな。」            トーマス・ア・ケンピス  『キリストに倣いて』 「モツァルトの光は、バッハのように崇高な、つまり天からだけ落ちてくる光ではない。またベートーベンのように、人間の苦悩する魂から滲みでる神秘的な光でもない。嬰児の笑い声のような明るさ、一種の天と地との間の薄明のような光線が、どこからともなくかれの作曲した音符の一つ一つに射している。 .....  つまり私たちの生まれなかった昔にでも聞いたような、天使の歌の遠いかすかな記憶が蘇るような具合に、モツァルトは歌いかけるのである。」           福永 武彦  『藝術の慰め』 「モツァルト頌」      「深い心の分析を緻密に行い日本人に心の何たるかを教えた唯識の思想、あるいは生命のひそやかで微妙な知恵を語る密教の思想、そして絢爛たる浄土に対する夢を語る源信の浄土思想、うめくような懺悔の悩みを救済の悦びと共に語る親鸞の思想などは禅と並んで日本文化に大きな影響を及ぼした。           梅原 猛  『美と宗教との発見』   「暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの祖先は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがて美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実日本の座敷の美は、まったく陰翳の濃淡によって生まれているので、それ以外に何もない。」           谷崎 潤一郎  『陰翳礼讃』   「日本だけの美の秘密がここにある。現実をそのまま再現しようとしないで、内面的に沈潜させる。沈潜によって深層の中に明確な像を形成する。深層の像が作品を藝術を美を左右する原点となる。」 「こう見てくると日本の庭の自然性とは、無限性の力学を軸とした選択と構

「読書についての再啓発」

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本店営業部でご一緒したのが S さんであったが、彼の読書量を聞くにつれ、いかに自分が本を読んでこなかったかを痛感した。そこで読書の対象を三分類して、読むことにした。先ずは業務に関するマクロ的な関連本、そして業務に関するミクロ的な関連本、それから教養としての文芸本である。これは一九八〇年の九月から開始しており、読書ノートに題名と著者それから出版社と読了年月を記して、本文のうち参考となる文章を書き写すこととした。このようにしたのは、折角読書をしても内容を忘れることが多いことを実感したからであった。この読書ノートにより、あとからノートを見ることで、その主たる内容を忘れないようにするためである。結果としてこれは文章の勉強となり、語彙を豊富なものとしてくれることとなった。そしてこのやり方を通じて感じたことは、一冊の本を読んで、書き手の言わんとする文章で心に残るものを、一つでも見つけて心に刻むことが出来たら、読書の大きな収穫であるということである。 今当時読んだ本の題名と内容を見直してみると、政治、経済、金融などのマクロ的な本はその時代の課題と将来展望を中心としているので、その時代限りのものとなり、永続して読まれているものは殆どないと思われる。従って、それらの本はこの本文においては記載しないこととする。一方教養としての読書は、今読み返しても奥深い内容を持っている本が多い。又 S さんからは、雑誌『選択』の紹介も受け、昭和五四年以来香港在勤中も含めて、いまだに愛読をしている。 日本に帰国した一九七九年六月から、柳橋支店に転勤する一九八三年一〇月にかけての読書で記憶に残っているのは、下記の書物である。大手町の本店内に勤務していた時代の読書である。   『地の糧』 アンドレ・ジイド  『キリストに倣いて』 トーマス・ア・ケンピス 『藝術の慰め』     福永武彦    『京都古寺逍遥』  水上勉 『吉井勇歌集』     吉井勇     『城の中の城』   倉橋由美子 『日本の父へ』 グスタフ・フォス    『アメリカの逆襲』 小室直樹 『ソビエト帝国の崩壊』 小室直樹    『ドイツ参謀本部』 渡辺昇一 『海軍と日本』   池田清       『美と倫理の矛盾』 梅原猛 『禅語百選』    松原泰道      『王朝百首』    塚本邦雄 『け

「大手町にて」

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  帰国して大手町にある本部所属となり、富士バンク・セミナーの担当となった。 講師を招いてのセミナーと箱根や熱海、京都や奈良への研修旅行の運営と同行が主たる任務であった。ちょうど熱海のホテルに泊まっていた時(一九七九年一〇月)、韓国の朴正煕大統領射殺事件が起きた。韓国の銀行からきていた二人は帰国すべきかどうか所属銀行へ照会し、結局はそのままセミナー参加継続となった。奈良のお寺巡りは東大寺と興福寺位で、京都の料亭で食事をして一泊し、京都では金閣寺と平安神宮を拝観したのみであった。 セミナーが終わって少しして、本店営業部に配属となり、そこで同期の E さんとまた一緒になった。 平安神宮

「米国からの帰国の旅」

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  一九七九年の一月に長男は NURSARY の教室で三歳の誕生日会をやってもらった。英語はしゃべることはできないが、聞くことは一部出来ているらしく、保育園での支障はないということであった。同じく一月に Y 家に K 家、 S 家と一緒にお邪魔して、男性はゴルフをし、夕食会を楽しんだ。五月に帰国の内示があり、 I 家と I 家と一緒にチェリー狩りに行ったり、リバー・ヒル・タワーの S 家、 S 家、 M 家と一緒にメ―シー・パークでのバーベキュー送別会を愉しんだりした。 日本への帰国の旅は、ニューアーク空港からセントルイス経由ロス・アンジェルスへ、そこで二泊して、ディズニー・ランドを楽しみ、それからハワイに飛んで、シェラトン・ワイキキ・ホテルに二泊する予定であった。 ロス・アンジェルスでは N さんの紹介で M さんの車を借りて、ディズニー・ランドへ行き、スモール・ワールドや潜水艦巡りを楽しんだ。ところがハワイへの飛行機が機体に問題があるからということで飛ばないこととなり、やむなくロス・アンジェルスにもう一泊することとなった。やっとハワイのホノルル空港に着き、ダイヤモンド・ヘッドの見える眺めの良いセミ・スイートの部屋に入ったが、旅程変更のために神経を使い、頭痛で少しベッドに寝た。それから折角なのでホテルの部屋からワイキキ・ビーチに降りて、子供たちを遊ばせたが、早めに引き上げて部屋で休んだ。それからホテルで夕食を食べて、その後近くのアラモアナ・ショッピング・センターに出かけたが、幼児二人連れなので、すぐにホテルに帰った。ハワイは広島の母の生まれた産土の地であったが、私のハワイ滞在の記憶は必ずしも良いものではなかった。 ホテルからダイアモンド・ヘッドを望む

「紐育での読書」

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ニューヨークでは、読書と言えば「ドイツ・グラモフォンのレコード」に書いた下記の書物以外はほとんど読んでいないのは、今振りかえれば恐ろしく勉強不足であった。二〇代後半から三〇代前半における六年の貴重な期間を、教養を身に着ける重要な手段の一つである読書を放擲したままで、徒爾に歳月を過ごしたこととなった。   『名曲をたずねて』上・下巻  神保璟一郎    『ピアノ名曲名盤一〇〇』 諸井誠  『音楽を愛する友へ』 EDWIN FISCHER 佐野利勝訳  『主題と変奏』 吉田秀和  『一枚のレコード』  吉田秀和                   『音楽巡礼』  五味康祐  マンハッタン街並

「レイク・ジョージのプール」

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一九七八年の夏休みは、同年一月に生まれた次男と長男という二人の幼子連れで次男が幼児であったことから、ニューヨーク州のオルバニーからそう遠くないレイク・ジョージのプール・サイドで滞在型休暇を過ごした。その近くにある GOAST TOWN 、 FORT WILLIAM HENRY 、 PROSPECT MOUNTAIN HOUSE などを訪ねて遊んだ。 このアディロンダック山地にあるジョージ湖は、「アメリカの湖の女王」と呼ばれている有名リゾート地で、湖の南北は五二キロ近くあるそうだ。またウィリアム・ヘンリー砦はイギリス軍の植民地の寄りどころであったが、一八七五年の英仏戦争で包囲戦の後イギリス側が降伏をした。その後に、インディアンによるイギリス人降伏兵への虐殺があったところとして有名であるようだ。ウィリアムの名前は英国王ウィリアム三世から名づけられたという。 一九七八年の秋に、オーク・ヒルのアパートがレンタルでなくなるため、ハドソン川沿いの GREY STONE 駅のすぐ上にある、 RIVER HILL TOWER へ引越しをした。そこには S さん、 S さん、 M さんが入居していた。買い物は近くの HASTING ON HADSON などでしていたが、わずかな期間のみの居住であったためあまり思い出すことは沢山ない。部屋がオーク・ヒルの ONE BED ROOM から TWO BEDS ROOM に変わったこと、ベランダから冬の寒い日には氷結したハドソン川を眺めることができたことくらいであろうか。   Lake George

「雪の日のブロンクスビル」

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  次男の 誕生予定日は、私と長男の誕生日である一月一九日に近く、親子三人ともに同じ日になるのかと思ったが、実際には一月二六日であった。当日は雪の日で、私は会社に出ており、産気づいて入院するというのでブロンクスビルのローレンス・ホスピタルに向かった。しかしかなり時間がかかってやっと元気に次男が生まれてきた。Kという漢字には磨けば玉となるという意味があるそうで、それが気に入って命名をした。 一九七八年の四月には二歳三か月の長男と三か月の次男を連れて、五年振りに一時帰国をすることとなり、まず広島に帰り、それから今度は若狭の神子にある妻の実家に行き、二週間の一時帰国を楽しんだ。 浴衣姿の息子たち