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1月, 2021の投稿を表示しています

「友人たちの来港」

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  一九九〇年三月には、 S 家四人が来港し、夕食を共にして、我が家にも遊びに来た。また大阪の妻の従弟である H 君も遊びにやってきた。 A 姉も娘の H ちゃんを連れて来港している。 そして八月の二日から六日にかけて、十六夜会の広島のメンバーと聖母幼稚園の先生お二人がやってきた。 M 先生、 Y 先生 、 K 君 、 K 君 、 S 君の五人でツァーに乗ってドラドン・エアー(港龍航空)でやってきた。 三日はツァーで赤松黄仙洞、飲茶、女人街、金銀宝飾店、ブランド店を周り、妻と圭が合流して、夕食は飲茶料理を食べている。その後はブレ―マー・ヒルズの我が家に来て、色々なお酒を飲みながら歓談した。 四日はマカオ・ツァーである。聖ポール天主堂跡、ホテル・リスボア、中国庭園と邸宅で剣劇や曲芸を楽しむ。それからホテルで歓談。 五日はまたブランド店で買い物、飲茶、オーシャン・パーク、地下鉄、そしてまた買い物、二階建て電車、ランド・マーク、妻と圭と合流して夕食、その後リージェント・ホテルで香港島の夜景を見ながら、お酒と談話を楽しんだ。 ニューヨークにいた頃には飛行機代も高く、友人は小学校のクラス・メイトがビジネス旅行で訪れたことがあったが、香港は日本からも近く友人たちが沢山訪れてくれて、楽しんで帰ってくれたと思う。 香港の社宅にて

「プーケット」

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  次の年、一九八九年の一二月にはタイのプーケットに行った。やはり二泊で泊ったのはメリディアン・ホテルだったと思う。ここでは次男の小学校の女子クラス・メイトの家族と一緒に島で泳いで、プーケットの街で夕食を食べた記憶がある。南海のリゾートでのクリスマスを楽しんだ。 プーケット

「コタキナバル」

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  南のリゾート地には、いずれも一二月に二度行っている。最初が一九八八年の一二月のコタキナバルである。ノースポイントから啓徳空港へフェリーで行き、そこからコタキナバルの空港に直行便であったと思う。ホテルはタンジュン・アル・ビーチ・ホテルで二泊であった。中の一日は、船で一時間位かかるサピ島に行ったが、サンゴ礁の奇麗な小島で、ビーチは貸し切り状態であった。ガーデン・プールやテニスを楽しんだ。 コタキナバル

「パリの観光」

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  翌日はバスで市内観光。エッフェル塔とノートルダム寺院を周り、オペラ座で解散。オルセー美術館へ行くも、月曜日でしまっていたのは残念。お昼はひぐまラーメン。午後はルーブル美術館で「ミロのヴィーナス」と「モナ・リザ」を見る。その後エッフェル塔にまた行って、エレベーターで一階層まで登る。夕食はまつだ寿司。美味い。 翌朝はグローバスの見送りをして、シャルル・ド・ゴール空港から帰りはエール・フランス。ボンベイとバンコックで給油して、一八時間かけて啓徳空港へ。 オルセー美術館

「フォンテンブローの宮殿」

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次の日はバーゼルでフランスに入り、ブザンソンを経て、パリに近づく。フォンテンブローの宮殿を見て、パリに入都。ホテルは新都心のラ・ディファンスにある。モンマルトルのレストランで夕食。 フォンテンブローの宮殿

「ルツェルンのナイト・ボート」

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  翌朝はバスで市内観光。ライオン岩を見る。それからピラトス山に登山電車で登るが霧雨の中で景観は何も見えない。その後のショッピングで、記念となるオルゴールを購入。夜はナイト・ボートに乗り、ヨーデルを聴く。 ルツェルンのナイト・ボート・ショウ

「ゴッタルト峠」

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  翌日はベニスからベローナ、ミラノを経由してスイスへ向かう。コモで国境を越え、ルガノで昼食、ゴッタルド峠を越える。湖に面した観光の街ルツェルンに入る。 ゴッタルト峠のスイス平氏

「ヴェニス サンマルコ広場」

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朝食後、サン・マルコ広場に行く。サン・マルコ寺院とドゥカーレ宮殿を拝観する。ベネティアン・グラスの工場も見学する。午後はラグーン(潟)・クルーズ。夕食後、水上タクシーでオペレッタへ行き、カンツォーネを聴く。 ヴェニス サンマルコ広場  

「ヴェニスのゴンドラ」

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  そしてベニスへの道を電車と並行して走って、ベニスに到着する。運河に沿ったホテルのレストランで夕食。その後ゴンドラに乗る。 ヴェニスのゴンドラ

「ザルツブルク モーツァルトの生家」

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メリーランドのコロンビアからきているS & M夫妻とバスの席が前後となり、仲良くなる。ミュンヘンは戦災で焼失したため、町全体が新しい感じがする。バイエルンの王宮を見る。ミュンヘンからは、オーストリアの塩の城ザルツブルグへ向かう。七〇〇年頃にできたこの街は大司教座でホーエン・ザルツブルグ城がその居城である。モーツァルトの生家とバロック建築のザンクト・ペーター教会を見る。 翌朝にはザルツブルグの旧市街で買い物をして、ベニスへ向かう。途中の山道はまさにチロルの絵葉書の世界である。その中にあるレストランで昼食を摂る。   モーツァルトの生家

「ハイデルベルクからミュンヘンへ」

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翌朝ハイデルベルク城を訪れる。『アルト・ハイデルベルク』に登場するネッカー河は緑濃かった。次いでバスはアウトバーンを高速で飛ばしながら、シュタットガルト、アウグスブルグ経由ミュンヘンへ向かう。 ハイデルベルク城からネッカー川を望む  

「アムステルダムからケルンへ」

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  翌日はユトレヒトやアーヘンを経由してドイツへ入国。パスポートの提示無し。バスはエッセン、ドルトムントを中心とするルール工業地帯を抜けて、一路ケルンへ。一二四八年着工以来六百年かかつて一八八〇年に刊行されたネオ・ゴシックのケルン大聖堂を拝観する。首都のボンを経て、ライン河下りに乗船。下船して、ハイデルベルクへ。 ケルン大聖堂

「船でオランダへ」

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  ツアー・バスで、ノボテルを出てロンドンよりハーウィック港へ午後八時前に着く。三万五千トンの船でオランダへ。船中泊。オランダについてマルケン島で風車の地区などを観光する。フォレンダムでシーフードを食べて、アムステルダムへ。遊覧船ののち国立美術館でレンブラントの『夜警』とフェルメールの『牛乳を注ぐ女』を見る。その後はダイヤモンド工場へ。 オランダの風車

「初めての欧州旅行 ロンドン」

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  一九八八年の七月には、富士銀行の仲間家族で西貢へのクルージングと海水浴を楽しんだ。また広島県人会でも香港島周辺の夕景色クルージングに参加した。 八月には家族四人で初めてのヨーロッパ旅行へ参加した。啓徳空港からブリティッシュ・エアウェイズの飛行機に乗り、南回りでロンドンのヒースロー空港まで飛ぶ。途中の給油を入れて、一四時間は長かった。観光バス一時間半のコースに乗る。著名な観光名所を周る。午後はボンド・ストリートを見て、王立美術館を拝観した。 London Bridge

「香港へ来遊された方々」

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最初に親戚・知人で香港に来遊したのは、妻の両親と義妹とその息子のM君であった。一九八八年の二月である。一週間近く滞在したが、その間ニュー・テリトリーのロクマチャウから中国本土を見て、その後レイユームンで海鮮料理を食べ、静松観の寺院を観光する一日や、マカオにジェットホイルで行き、ミニバス観光で古寺院、聖ポール天主堂跡、ポルトガル料理などを愉しんだ一日など、香港市街での買い物や食事なども含めて、楽しんで頂いた。また丁度旧正月の時期にあたり、マーケティング部門の現地行員とその家族を我が家に招待し、食事のあとトランプやマージャンで遊んだが、義父は大きめの広東牌の香港式マージャンを観戦するだけで覚えて、最終的には勝ちマージャンを打ったのは、流石であった。 同じ二月に義兄のN家のT君が来港した。香港島の南東にあるスタンレー・マーケット、大丸、飲茶、女人街、ペニンシュラのエルメスでのスカーフ購入を楽しんで帰った。 一九八八年九月にはN家のM君が自分の歯科医院の技工士、看護婦を連れて来港。歯科治療剤を購入し、香港観光をして帰国した。同じ月に広島の父母、四番目の姉とその長男T君が来港。約一週間滞在した。ペニンシュラ・ホテルの喫茶、シェラトン・ホテルの日本料理・雲海、中華百貨店、ホープウェル・センターのレボルビング六六、タイガーバウム公園、ビクトリア・ピーク、アバディーン、レパルス・ベイ、スタンレー・マーケット、ジャスコ、香港の地下鉄、カオルーン・クラブなどを案内して、父は書画用の筆や墨を沢山仕入れて満足して帰国した。翌月の一〇月には、銀行の業務で S さんが取引先と一緒に来港、 O さんにお仕えしたこともあり、旧交をご一緒に温めた。 S さんは、もう一度業務で来港されている。 又大阪外事でお仕えした K さんや京阪神サッカー部でお世話になった K さんも、 O さん共々歓待し、広島支店でお仕えした K さん、本店営業部時代の N さん、目黒支店時代の A さん、その他多くの銀行の先輩や同輩、学生時代の友人などが来遊しに来た。   旧正月の自宅でのパーティ

「マーケティング部門で」

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  香港在勤で一番充実し楽しかったのは一九八七年一二月からのマーケティング部門担当の二年半であった。一九八八年二月には最大の取引先である K 社の役員と共に販売先の汕頭を O 副董事長と共に訪問した。そして廣安銀行と富士銀行との合弁二〇周年記念パーティ、毎旧正月における百近くのテーブルに顧客を招待してのスプリング・ディナー、我が家にマーケティング部門のメンバーと家族を招待しての旧正月の接待。オーナー役員とのタイへのビジネス旅行、マーケティング部門の上海蟹パーティ、行内サッカー大会での優勝、ドラゴン・ボートの応援、マカオ・広州・東莞への工場見学を兼ねたビジネス旅行など、思い出は数えればきりがない。 歴史的な事件としては、何といっても一九八九年六月四日の天安門事件であった。 Spring Dinner

「香港での勤務」

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二度目の海外勤務となった。一九八七年五月に、まずは引継の為に一週間香港へ出向いた。啓徳空港が近づき、町の家並みがはっきりとわかるようになる。まさに印象は雑然とした街だ。一階が商店街で二階以上が住居階となっているらしいビルが多く、そのほとんどが窓から洗濯物を吊り下げている。 出向先の廣安銀行は地場銀行であり、セントラル地区の中央市場のそばにその本店があった。私の担当業務は当初はコーポレイト・プラニング部であったが、後にマーケティング部、そして審査・国際部門と三つの協理( CHIEF MANAGER )を担当した。 住居は日本人学校から近い塞西湖(チョイサイウー)の寶馬山道(ボウマーサントウ)にあるブレーマー・ヒルズという高層マンションである。マンションは三十七号棟(サムサップチャホウ)であり、その二〇階の B 室が我が家であった。 啓徳空港を見下ろす リビングルームのテラスからは、正面真下に啓徳空港を見下ろすことができ、飛行機の発着するのが見えた。眺望は素晴らしかった。 

「言葉のオアシス その2」

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<一九八三年一〇月から、一九八七年五月までの読書>  「学道の人は人情を棄べきなり。人情を棄ると云ふは、佛法に随ひ行くなり。」 「玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁となる。いづれの玉か初より光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し錬磨すべし。」           道元禅師 懐奘編 和辻哲郎校訂 『正法眼蔵随聞記』   「学問の道は気質の陶冶にあり。知識の収集にあるのではない。」          司馬遼太郎  『峠』   「一切は変化し流転してやまぬ。われわれはこの永遠の流転の中にあって、何か流転しないもの、動かないもの、常住静かに渝ることなく存在するものを無意識に求めているのではないか。」 「非常に美しいものは、必ずわれわれを讃嘆のあまり沈黙させずにはおかぬということを忘れてはならぬ。」           高橋 義孝  『すこし枯れた話』  「光を所有することで自己を改造したいという欲望。それが愛である。」 「愛が人生に豊かな収穫を与えるためには、その愛が理性に耐えうるもの、そして時間に耐えうるものでなくてはならぬ。」             福永 武彦   『愛の試み』 スクロヴェーニ礼拝堂 パドヴァ (大塚国際美術館)

「一九八三年から一九八七年までの読書」

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名古屋の柳橋支店勤務開始の一九八三年一〇月から、目黒支店勤務終了の一九八七年五月までの読書は、支店勤務で多忙であったせいか、本当に少ない。 『正法現蔵随聞記』 懐奘編 和辻哲郎校訂  『峠』       司馬 遼太郎 『すこし枯れた話』    高橋義孝     『旅のなか』    立原正秋 『旅の余白』    吉村貞司        『花と風』     秦恒平 『愛の試み』    福永 武彦       『ノルウェイの森』 村上 春樹   若狭 三方五湖

「目黒から香港へ」

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一九八五年一一月に名古屋の柳橋支店から目黒支店へと転勤となった。 K 支店長に半年ばかりお仕えし、一九八七年四月の転勤までは A 支店長にお仕えした。時は不動産バブルの真最中であり、多忙なうちに一年半が過ぎた。思い出としては、行内旅行で中尊寺や厳美渓に行ったことや、クリスマス・パーティなどがある。 一九八六年三月には、 K 家で四家族親子全員集まってのオーク・ヒル会を開いた。八月には軽井沢の保養寮に遊び、また同月に広島の父母と鴨川への一泊旅行を楽しんでいる。一九八七年三月には浦安にディズニー・ランドが開園し、市民デイには家族全員で朝から夜の花火までまる一日遊興した。   そして海外への内示があり、香港の合弁銀行への出向であった。   鴨川グランド・ホテル

「「壷中の天」の投稿」

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銀行の交流誌に『裾野』というのがあり、目黒支店時代に執筆のご指名を頂き、下記の投稿をした。   「名古屋出身で東洋学を基本にした人物評論家に伊藤肇という人がおり、その人の『帝王学ノート』を読んだのは、柳橋支店赴任直前であった。その本で伊藤肇の師であった安岡正篤が中国の故事から作った六中観というものがあることを知った。死中有活、苦中有楽、忙中有閑、壷中有天、意中有人、腹中有書がそれであるが、中でも壷中有天に強く惹かれた。昔中国の如南の町の役人が一日の勤務を終え大通りを眺めていると、薬売りの老人が店仕舞いの後で店先の大きな壺の中に入っていくのを見た。不思議に思った役人が翌日その老人に問い質すと、老人は已無く役人を壺の中に同行した。壺の中は広々とした別天地で美酒佳肴に満ちており、役人は心ゆく迄愉しんでまた地上に還ってきたという。これが転じて壷中天 あり とは現実の世俗的生活の中に自らが創っている別天地の愉しみの謂いとなった由である。 人はさまざまの壷中の天を持っておりそれを糧として世俗的生活を過ごしているわけであるが、私が名古屋において自らの壷中の天に付加し得たものを回顧してみると次の通りである。昭和美術館で見た長次郎の黒楽茶碗、犬山有楽苑の如庵、湖北渡岸寺の十一面観音、薩摩焼の鉢に植えられた小盆栽、パブロ・カザルスの『鳥のうた』、エゴン・シーレの絵画、デュビュッフェとポロックのモダン・アート、黒岩重吾の『落日の王子』と城山三郎の『冬の派閥』、それと小唄少々。以上が特に印象深いものである。これらの殆んどは名古屋で親交いただいた方々からお教えを受けたものばかりである。つまり人との邂逅によって私の壷中の天も些かの広がりを得たと思われるのである。ただ私の場合あまりに興味の対象が拡散しすぎており、個々の領域の広がりと深さを考えるとき、自らの中に真に壷中の天と呼べるものがないことに内心忸怩たるものがある。名古屋で親交を得た方々は皆それぞれに真の壷中の天を有しておられ、酒を酌み交わす中で組めども尽くせない味わいがあり、その方々の壷中の天はひとつの慥かな小宇宙を形成していたという感を今にして思う次第である。 伊藤肇は「いかなる壷中の天を持っているか、これがその人物の器量を決定する」と断じている。自らの壷中の天をひとつの慥かな小宇宙へと昇華させていきたいと念じている今日この頃

「名古屋の八事にて」

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  一九八三年一〇月に名古屋の柳橋支店に転勤した。家庭寮は八事であった。車は取引先N社 のスタンザに乗り換えた。八事には興正寺があり、買い物はいつもジャスコであった。 名古屋にいたのは一九八三年一一月から一九八五年一一月の二年間であったが、その間東山動物園、一九八四年夏には志摩観光ホテルに泊まって、伊勢神宮参りをした。ホテルのシーフードが宿泊料金より高かったのは、子供たちがアワビのステーキを食べたからである。秋にはニューヨークでご一緒だった K 家と明治村を訪れた。 一九八五年夏には北陸に旅行をし、東尋坊、金沢の兼六公園、越前海岸での海水浴を楽しみ、それから神子に寄った。妻子を実家に預けて、帰路に湖北の十一面観音を拝観して回った。石道寺、鶏足寺、渡岸寺を周ったが、渡岸寺の十一面観音像の見事さは感銘を受けた。 その他では子供二人を連れて清洲城を訪れたり、家族で郡上八幡にドライブしたりした。郡上八幡では古城を見ると共に、日本名水百選の宗祇水を見たが、名水の滾々と湧くのが印象的であった。帰りには鮎を食べた記憶がある。また瀬戸市にある曹洞宗の雲興寺を見て、犬山城に周って天守閣に登り、織田有楽斎で有名な有楽苑の茶室を拝観。そのあと犬山モンキーパークで子供たちを遊ばせた。又奈良の義弟の所に遊びに行き、秋篠寺、慈光院、中宮寺、明日香の石舞台などを車で周ったこともあった。 名古屋の柳橋支店の行内旅行では、一九八四年には信州のビーナスラインを周遊し白樺湖を愉しんでいる。また一九八五年には浜名湖に一泊旅行をし、浜松市フラワー・パークや奥浜名湖の竜ケ岩洞を観光した。 それ以外では、この支店には、代々小唄を習う決まりがあり、月一回業後の三十分、師匠の三味線に合わせて小唄を習った。『梅は咲いたか』『かみなりさん』『どうぞ叶へて』の三つの小唄を覚えて、師匠の小唄の会において皆さんの前で唄ったことがある。     『どうぞ叶えて』   どうぞーおぉー 叶えて くだしゃんせぇー   妙見さんにー 願かけぇえてぇ   帰る道にもー あの人にー   逢いたぁーいー 見たぁあいー 恋いぃしやぁーとー   こっちーばかりでー さきゃあしらーぬー   えぇー しんきらしいじゃあー ないぃーかいーなー 上記にニューヨーク以来の想い出を詳しく書くことができたの

「初めての古寺巡礼記録」

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  一九八二年五月に、本店営業部の O 君の結婚披露宴が神戸の舞子ビラで開催されることとなり、同僚の S さんと私が招待された。そこで前日を京都巡りで過ごそうということとなり、前日から出かけた。当時の記録は、たまたま読書ノートに記していたものを見つけたものである。内容は下記の通りである   五月一五日、土曜日。朝七時の新幹線で京都へ。 S さんと二人。京都駅には地下鉄が出来ており、様変わりとなっていた。タクシーで鷹峯へ。タクシーの運転手さんによれば、本日は葵祭とのこと。鷹峯では光悦寺を見る。この寺は一六一五年に徳川家康が本阿弥光悦に下賜。光悦を中心とする工芸部落が出来た。それらは作陶、書道、絵画、光悦謡本、蒔絵、茶道である。光悦寺の茶室、三巴亭、太虚庵。来訪者は極めて少なく三~四組。青葉の美しい中、茶席を見て歩く。楓の早緑が風景を一段と柔和なものにしてくれるようだ。宝物殿には光悦の茶碗、沢庵の書、光琳の蒔絵、益田鈍翁の茶碗などが展示されていた。 次いで大徳寺へ。最初に高桐院、次いで芳春院を見る。高桐院は細川三斎により、一六〇一年に建立された。三斎は織田、豊臣、徳川の三代に生き抜き、正室ガラシア夫人は明智光秀の息女。三斎はまた利休七哲のひとり。参道は自然石の敷石道で竹の手すりが作られている。この参道が実に整然としており、歩むに爽やかである。客殿南庭は楓樹を主とした野趣に富む庭であり、庭の左手の竹林と、右手の樹木が自然の壁を作っているように思われた。そして樹木の背が高いため、陽の光が木漏れ日となっている。これも計算のうちであろうか。ただ壁がないせいか、庭としてのまとまりがやや欠けていると感じた。 芳春院は一六〇八年に前田利家夫人・松子(芳春院)により建立された。前庭。花岸庭は禅院式枯山水の庭園。桔梗の庭とも呼ばれる。夏に咲く白紫の桔梗は一度見てみたい気がする。今は皐月の花が咲いていて、枯山水の庭としてはとても華やかである。呑湖閣は小堀遠州等が一六一七年に建てたもので、金閣、銀閣、飛雲閣と共に京都の四閣と言われる。 昼食は「一久」で精進料理を頂く。やや油が濃くて醤油の味が強い料理であった。大徳寺納豆を買って、大徳寺を退出した。 高桐院

「永住の地・浦安へ」

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  帰国後は板橋の家庭寮に新しくできた2 LDK に入ったが、すぐに持ち家を探し始めた。ニューヨークで一緒だった T さんから、大学の卓球部の先輩の勤めている S 不動産を紹介してもらった。ちょうど浦安で戸建ての建築を進めているということであり、勤務中の本店営業部からも近いことから実際に浦安の現場を見に行った。まだ京葉線のない時代であったが東西線で大手町まで一本であり、幼稚園や学校そして病院も近くにあり、環境が良さそうなので、浦安に申し込むことにした。希望の一戸建てが当り、一九八一年一月に浦安に引っ越した。 一九八三年の四月一三日には、待ちに待った東京ディズニー・ランドが開園、市民デイがあり、市民全体が何回かに分かれて招待された。そして京葉線が全線開通となったのは一九九〇年であった。 帰国後まもなく東京サッカー部へ OB とし参加して、東西対抗戦などに参加して楽しんだ。 神子の実家の庭

「言葉のオアシス その1」

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<日本に帰国した一九七九年六月から、柳橋支店に転勤する一九八三年一〇月にかけての読書から> 「君の眼に映ずるものが、刻々に新たならんことを。  賢者とは萬づのことに驚嘆する人を謂ふ。」            アンドレ・ジイド  『地の糧』   「自分に打ち克ち、日毎より強くなり、いくらでも特に進むことが出来ることが、私共の務めでなければならない。」 「すべての言葉や本能を軽々しく信ずるな。むしろ慎重に、気長に、神のみ旨に従って、事をはからねばならない。」 「自分を、自分以上のものに見せようとするな。」            トーマス・ア・ケンピス  『キリストに倣いて』 「モツァルトの光は、バッハのように崇高な、つまり天からだけ落ちてくる光ではない。またベートーベンのように、人間の苦悩する魂から滲みでる神秘的な光でもない。嬰児の笑い声のような明るさ、一種の天と地との間の薄明のような光線が、どこからともなくかれの作曲した音符の一つ一つに射している。 .....  つまり私たちの生まれなかった昔にでも聞いたような、天使の歌の遠いかすかな記憶が蘇るような具合に、モツァルトは歌いかけるのである。」           福永 武彦  『藝術の慰め』 「モツァルト頌」      「深い心の分析を緻密に行い日本人に心の何たるかを教えた唯識の思想、あるいは生命のひそやかで微妙な知恵を語る密教の思想、そして絢爛たる浄土に対する夢を語る源信の浄土思想、うめくような懺悔の悩みを救済の悦びと共に語る親鸞の思想などは禅と並んで日本文化に大きな影響を及ぼした。           梅原 猛  『美と宗教との発見』   「暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの祖先は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがて美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実日本の座敷の美は、まったく陰翳の濃淡によって生まれているので、それ以外に何もない。」           谷崎 潤一郎  『陰翳礼讃』   「日本だけの美の秘密がここにある。現実をそのまま再現しようとしないで、内面的に沈潜させる。沈潜によって深層の中に明確な像を形成する。深層の像が作品を藝術を美を左右する原点となる。」 「こう見てくると日本の庭の自然性とは、無限性の力学を軸とした選択と構

「読書についての再啓発」

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本店営業部でご一緒したのが S さんであったが、彼の読書量を聞くにつれ、いかに自分が本を読んでこなかったかを痛感した。そこで読書の対象を三分類して、読むことにした。先ずは業務に関するマクロ的な関連本、そして業務に関するミクロ的な関連本、それから教養としての文芸本である。これは一九八〇年の九月から開始しており、読書ノートに題名と著者それから出版社と読了年月を記して、本文のうち参考となる文章を書き写すこととした。このようにしたのは、折角読書をしても内容を忘れることが多いことを実感したからであった。この読書ノートにより、あとからノートを見ることで、その主たる内容を忘れないようにするためである。結果としてこれは文章の勉強となり、語彙を豊富なものとしてくれることとなった。そしてこのやり方を通じて感じたことは、一冊の本を読んで、書き手の言わんとする文章で心に残るものを、一つでも見つけて心に刻むことが出来たら、読書の大きな収穫であるということである。 今当時読んだ本の題名と内容を見直してみると、政治、経済、金融などのマクロ的な本はその時代の課題と将来展望を中心としているので、その時代限りのものとなり、永続して読まれているものは殆どないと思われる。従って、それらの本はこの本文においては記載しないこととする。一方教養としての読書は、今読み返しても奥深い内容を持っている本が多い。又 S さんからは、雑誌『選択』の紹介も受け、昭和五四年以来香港在勤中も含めて、いまだに愛読をしている。 日本に帰国した一九七九年六月から、柳橋支店に転勤する一九八三年一〇月にかけての読書で記憶に残っているのは、下記の書物である。大手町の本店内に勤務していた時代の読書である。   『地の糧』 アンドレ・ジイド  『キリストに倣いて』 トーマス・ア・ケンピス 『藝術の慰め』     福永武彦    『京都古寺逍遥』  水上勉 『吉井勇歌集』     吉井勇     『城の中の城』   倉橋由美子 『日本の父へ』 グスタフ・フォス    『アメリカの逆襲』 小室直樹 『ソビエト帝国の崩壊』 小室直樹    『ドイツ参謀本部』 渡辺昇一 『海軍と日本』   池田清       『美と倫理の矛盾』 梅原猛 『禅語百選』    松原泰道      『王朝百首』    塚本邦雄 『け

「大手町にて」

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  帰国して大手町にある本部所属となり、富士バンク・セミナーの担当となった。 講師を招いてのセミナーと箱根や熱海、京都や奈良への研修旅行の運営と同行が主たる任務であった。ちょうど熱海のホテルに泊まっていた時(一九七九年一〇月)、韓国の朴正煕大統領射殺事件が起きた。韓国の銀行からきていた二人は帰国すべきかどうか所属銀行へ照会し、結局はそのままセミナー参加継続となった。奈良のお寺巡りは東大寺と興福寺位で、京都の料亭で食事をして一泊し、京都では金閣寺と平安神宮を拝観したのみであった。 セミナーが終わって少しして、本店営業部に配属となり、そこで同期の E さんとまた一緒になった。 平安神宮

「米国からの帰国の旅」

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  一九七九年の一月に長男は NURSARY の教室で三歳の誕生日会をやってもらった。英語はしゃべることはできないが、聞くことは一部出来ているらしく、保育園での支障はないということであった。同じく一月に Y 家に K 家、 S 家と一緒にお邪魔して、男性はゴルフをし、夕食会を楽しんだ。五月に帰国の内示があり、 I 家と I 家と一緒にチェリー狩りに行ったり、リバー・ヒル・タワーの S 家、 S 家、 M 家と一緒にメ―シー・パークでのバーベキュー送別会を愉しんだりした。 日本への帰国の旅は、ニューアーク空港からセントルイス経由ロス・アンジェルスへ、そこで二泊して、ディズニー・ランドを楽しみ、それからハワイに飛んで、シェラトン・ワイキキ・ホテルに二泊する予定であった。 ロス・アンジェルスでは N さんの紹介で M さんの車を借りて、ディズニー・ランドへ行き、スモール・ワールドや潜水艦巡りを楽しんだ。ところがハワイへの飛行機が機体に問題があるからということで飛ばないこととなり、やむなくロス・アンジェルスにもう一泊することとなった。やっとハワイのホノルル空港に着き、ダイヤモンド・ヘッドの見える眺めの良いセミ・スイートの部屋に入ったが、旅程変更のために神経を使い、頭痛で少しベッドに寝た。それから折角なのでホテルの部屋からワイキキ・ビーチに降りて、子供たちを遊ばせたが、早めに引き上げて部屋で休んだ。それからホテルで夕食を食べて、その後近くのアラモアナ・ショッピング・センターに出かけたが、幼児二人連れなので、すぐにホテルに帰った。ハワイは広島の母の生まれた産土の地であったが、私のハワイ滞在の記憶は必ずしも良いものではなかった。 ホテルからダイアモンド・ヘッドを望む

「紐育での読書」

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ニューヨークでは、読書と言えば「ドイツ・グラモフォンのレコード」に書いた下記の書物以外はほとんど読んでいないのは、今振りかえれば恐ろしく勉強不足であった。二〇代後半から三〇代前半における六年の貴重な期間を、教養を身に着ける重要な手段の一つである読書を放擲したままで、徒爾に歳月を過ごしたこととなった。   『名曲をたずねて』上・下巻  神保璟一郎    『ピアノ名曲名盤一〇〇』 諸井誠  『音楽を愛する友へ』 EDWIN FISCHER 佐野利勝訳  『主題と変奏』 吉田秀和  『一枚のレコード』  吉田秀和                   『音楽巡礼』  五味康祐  マンハッタン街並

「レイク・ジョージのプール」

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一九七八年の夏休みは、同年一月に生まれた次男と長男という二人の幼子連れで次男が幼児であったことから、ニューヨーク州のオルバニーからそう遠くないレイク・ジョージのプール・サイドで滞在型休暇を過ごした。その近くにある GOAST TOWN 、 FORT WILLIAM HENRY 、 PROSPECT MOUNTAIN HOUSE などを訪ねて遊んだ。 このアディロンダック山地にあるジョージ湖は、「アメリカの湖の女王」と呼ばれている有名リゾート地で、湖の南北は五二キロ近くあるそうだ。またウィリアム・ヘンリー砦はイギリス軍の植民地の寄りどころであったが、一八七五年の英仏戦争で包囲戦の後イギリス側が降伏をした。その後に、インディアンによるイギリス人降伏兵への虐殺があったところとして有名であるようだ。ウィリアムの名前は英国王ウィリアム三世から名づけられたという。 一九七八年の秋に、オーク・ヒルのアパートがレンタルでなくなるため、ハドソン川沿いの GREY STONE 駅のすぐ上にある、 RIVER HILL TOWER へ引越しをした。そこには S さん、 S さん、 M さんが入居していた。買い物は近くの HASTING ON HADSON などでしていたが、わずかな期間のみの居住であったためあまり思い出すことは沢山ない。部屋がオーク・ヒルの ONE BED ROOM から TWO BEDS ROOM に変わったこと、ベランダから冬の寒い日には氷結したハドソン川を眺めることができたことくらいであろうか。   Lake George

「雪の日のブロンクスビル」

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  次男の 誕生予定日は、私と長男の誕生日である一月一九日に近く、親子三人ともに同じ日になるのかと思ったが、実際には一月二六日であった。当日は雪の日で、私は会社に出ており、産気づいて入院するというのでブロンクスビルのローレンス・ホスピタルに向かった。しかしかなり時間がかかってやっと元気に次男が生まれてきた。Kという漢字には磨けば玉となるという意味があるそうで、それが気に入って命名をした。 一九七八年の四月には二歳三か月の長男と三か月の次男を連れて、五年振りに一時帰国をすることとなり、まず広島に帰り、それから今度は若狭の神子にある妻の実家に行き、二週間の一時帰国を楽しんだ。 浴衣姿の息子たち

「ニュー・ハンプシャーの夏」

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一九七七年の夏休みは、 NEW HAMPSHIRE 州にあるホワイト・マウンテン国立公園で過ごした。リゾート・タウン NORTH CONWAY 、 STORY LAND 、 MOUNT WASHINGTON のスカイラインからの絶景、モーテルに泊まり、 SIX GUN CITY と LOST RIVER 渓谷。それから LAKE REGION の LACONIA に泊まった。次の日は MASSACHUSETTES 州の CAPE COD に向かい、コッド岬で観光をする。コッドとは鱈の意味である。最後の日は RHODE ISLAND 州のジャズで有名な NEW PORT を見て回った。三つの州をこの夏はドライブ観光したことになる。 九月は BRONX ZOO に行き、一〇月は BEAR MOUNTAIN の紅葉を楽しんだり、 I 家、 I 家と一緒にリンゴ狩りに行ったりした。買い物は自宅から近い、 CROSS COUNTY SHOPPING CENTER や日本食材店の明治屋に行くことが多かった。 一二月には次男の誕生を控えて、日本から妻の伯母さんと妹がやってきたので、ダウン・タウンやバッテリー・パーク、そして自由の女神、 ROCKEFELLER CENTER などに連れて行った。   STORY LAND

「TANGLEWOODの音楽フェスティバル」

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  六月には、一泊で TANGLEWOOD の音楽フェスティバルを聞きに出かけた。当時のボストン交響楽団の指揮者は勿論小澤征爾であり、広い公園の真ん中にオープン・スペースの屋根付きステージがあり、そこで楽団は音楽を演奏する。周囲は芝生となっており、我々は芝生に寝転がって、小沢の音楽を楽しむことができた。長男はストローラーに乗ったままで大丈夫である。セントラル・パークでも野外音楽堂で芝生に座ってチャイコフスキーの『一八一二年』を聞いたことがあり、最後は花火が終楽章を飾ったのを見た記憶があるが、日本とは異なり色々な音楽の楽しみ方が、米国にはあるものだと感じ入った。小澤征爾と言えば、父親が満州事変に絡んだ服部征四郎と石原莞爾を尊敬しており、その名前から征爾と名付けたことで有名であるが、小澤征爾時は先日のテレビ(二〇一九年九月二二日)のインタビューで、「殻を破って外へ出るというエネルギーが大切である」と語っていた。ヘッセも『デミアン』の中で、次のように記述している。   「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。  卵は世界だ。  生まれようと欲するものは一つの世界を  破壊しなければならない。  鳥は神に向かって飛ぶ。  神の名はアプラクサクという。」 *アプラクサス : ヘレニズム時代に、アレクサンドリア周辺で最高神として崇められた。 TANGLEWOODの音楽フェスティバル

「バージニア州・ペンシルベニア州への旅」

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一九七七年の一月、 K 家に代わってお向かいに入ったのがジョンとメルセデス夫妻であった。まだお子さんがいないので、我が家の長男をとてもかわいがってくれた。米国生活ではプライベートで現地の方々とお付合いする機会が少なく、あとは同じアパートの元お医者さんのドクター・ディンゴールと奥さんのメリッツァの二家族でしかなかった。ドクターは米国生まれであったが、メリッツァはユーゴスラビアの生れで、米国への避難民であった。一度夕食に誘われたことがあったが、きわめて質素な生活をされておられる様子がよく分かった。 二月にはハドソン川上流にあるウェスト・ポイントの陸軍士官学校を訪れ、四月にはニュージャージー州の桜の名所・ブランチ・ブルック・パークへオーク・ヒルのお仲間とお花見に行った。メルセデスの実家にお呼ばれしたのも、この時期である。 五月の春の旅行は、まずはペンシルバニア州のデュポンの庭園、 LONGWOOD GARDEN を訪れ、米国独立戦争の大陸軍の宿泊所のあったバレー・フォージを見て、それからバージニア州の初代大統領のプランテーションのあったマウント・バーノンを見学した。新古典主義ジョージア調建築様式の邸宅であった。ついで SHENANDAUH 国立公園の SKY LINE PARKWAY をドライブして、シェナンドーの美しい山並みを満喫した。バージニア州からペンシルバニア州に戻って、チョコレートのハーシー・パークの遊園地とローズ・ガーデンで同じオーク・ヒル在住の K 家と S 家と出会い、そこでの観光をご一緒した。そこで両家とお別れして、ランカスターにあるダッチ・ワンダーランド、避暑地のポコノにある US メモリー・タウンを楽しんで帰宅した。一泊したのはよく覚えていないが、バージニアのモーテルであったろう。 Longwood Garden