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12月, 2020の投稿を表示しています

「ハロウィーン」

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一九七六年の一〇月にはハロウィーンで、長男も初めて仮装してミッキー・マウスとなり、 TREAT OR TRICK でお菓子を沢山もらってきた。またクリスマスも、オーク・ヒル・ファミリーで賑やかにパーティを開いて楽しんだ。   ハロウィーン

「ナイアガラからレイク・プラシッド 」その2

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  次の日はカナダの首都であるオタワに行き、国会議事堂や運河などを観光する。ニューヨークも東京と比べると湿度が低いが、カナダの都市はいずれも湿度が低いので、空気が澄んでおり、写真の風景が見事に再現される。オタワで宿泊したのはホテル・シャトー・ローリエであったが、現在は Fairmont Château Laurier と名前が変わっているようである。 オタワからモントリオールに向かう。北米一のステンド・グラスと言われるノートルダム聖堂、パリの風情が漂うオールド・モントリオール、万国博覧会の跡地の公園、オリンピック公園などを巡った。因みにトロントとオタワはオンタリオ州であるが、モントリオールはケベック州でフランス語圏であり、道路標識なども、モントリオールでは英語とフランス語が併記されていたと思う。ケベックの町には、まだ単身赴任の時期に遊びに行ったが、ケベックへ向かう途中から道路標識がフランス語のみになった記憶がある。ケベックでは、シャトー・フロンテナックというホテルがイギリスの女王陛下もお泊りになるホテルとして有名であり、まさにシャトーという名の通りの立派な建物であった。モントリオールから南下して、ニューヨーク州の北部にあるレイク・プラシッドに到着する。ここは一九三二年に冬季オリンピックを開催した場所であり、また次回の一九八〇年に第二回目の冬季オリンピックが予定されているところである。九月なのに寒くて長男にもセーターを着せたほどであった。ミラー・レイクの近くのモーテルに泊まる。 Lake Placidにて

「ナイアガラからレイク・プラシッド 」その1

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  一九七六年の七月には担当業務はオペレーションの PAYING & RECEIVING SECTION となり、そこでは業務上のトラブルで思わぬ苦労をした。帰国までこのオペレーションで勤めることとなる。  プライベートでは一九七六年の六月には、長男を連れて初めて YANKEE  STADIUM に野球の観戦に行った。長期休暇は九月に取得して、 I 家、 T 家とご一緒にキャッツキルに泊まって、子供たちを預けて、大人はゴルフを楽しんだ。 そこから我が家は NEWYORK THROUGH WAY を北上して、ナイアガラの米国側に着いた。カナダ側のスカイロン・タワー・レストランでランチを食べて、カナダ側のナイアガラ瀑布を見た。巨大な幅広い水のベルトが目の前を真っ逆さまに落ちてゆく様は、筆舌に尽くし難い。滝壺のあたりでは霧の乙女号 MAID OF THE MIST が瀑布すれすれに航行している。エルトン・ジョン風のサングラスをかけて、まさにその当日に二、三歩生まれて初めて歩いた長男には、ナイアガラ瀑布を見た記憶は残らないであろう。 ナイアガラからトロントの町に入り、市庁舎、オンタリオ州議事堂、白亜の豪華な邸宅 CASA ROMA を見て回り、セント・ローレンス川沿いに車で走って、サウザンド・アイランドのコテージ風の宿に泊まる。 ナイアガラ瀑布

「ボストンへの旅」

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  一九七六年の一月一九日に長男が生まれた。長男の誕生に際しては色々な人からお祝いの品を頂いたが、 I 家から頂いたピーター・ラビットのぬいぐるみと、 I 家から頂いたプラスチック製のロコモーティフは今でも残っており、ロコモーティフの方は四人の孫たちがいまでもねじを巻いて動かして、遊んでいる。四月にはライ・ビーチへ連れて行ったが、もう泳いでいる人たちがいるのには驚いた。ゴルフは MAPLE MORE GOLF COURSE にウェストチェスターの同僚たちとよく出かけた。自宅のすぐそばの BRONX RIVER PARKWAY には長男を連れてよく遊びに行ったが、新婚さんの写真を写す格好の場所でもあった。  五月にはボストンに行った。長男はまだ四ヶ月であり、自動車用のクリブに乗せて連れて行ったが、クーラーがないので暑くて大変であった。 OLD STATE HOUSE 、マサチューセッツ州議会議事堂、ジョージア王朝風のパーク通り教会、キングス・チャペル(英国国教会)、旧市庁舎とベンジャミン・フランクリン像などを見て回り、それからボストン美術館へ行った。当時の私の西洋美術認識は印象派の域を出ていなかったので、印象派の絵画ばかりを見ていた。ボストン美術館は、二〇世紀までのアメリカンアートとヨーロッパ印象派、ポスト印象派の作品、それにエジプト美術が特に充実しているとのことであったが、記憶に残っているのは印象派の作品と東洋美術の浮世絵の作品であった。印象派及び後期印象派の作品で有名なものは下記の通りである。 クロード・モネ      『着物をまとうカミーユ・モネ』 一八七五 - 七六年              『ルーアン大聖堂(太陽の効果)』 一八九四年              『ルーアン大聖堂(正面・夜明け)』 一八九四年              『睡蓮』 一九〇五年 メアリー・カセット    『座敷席にて』 一八七八年 ピエール=オーギュスト・ルノワール    『ブージヴァルのダンス』 一八八三年 フィンセント・ファン・ゴッホ   『郵便配達人ジョセフ・ルーラン』 一八八八年 ポール・ゴーギャン    『我々は何処から来たのか、我々は何者か、               我々は何処へ行くのか』 一八九七—九八年    上記の

「世界貿易センターからの夜景」

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  ニューヨーク支店での仕事は、当初は輸出入のドキュメンタリー部門を担当したが、次いで日系企業の貸付課の方へ担当替えとなった。 オフィスはマンハッタンのミッド・タウンの方に面しており、エンパイア・ステート・ビルディングやクライスラー・ビルディングそしてブロードウェイ辺りの繁華街の灯りが、仕事など辞めて繰り出して来いとばかりに燦然と煌めいており、その夜景の美しさに讃嘆しながら、仕事を遅くまでしたものであった。夕食は階下のレストランに食べに出かけることもあったが、 N さんの持参してきた日清のカップ・ヌードルで済ませることが多かった。ニューヨーク支店勤務と言えば、思い出は色々とあるが、世界貿易センター・ビルから眺望したマンハッタンの美しい夜景は忘れることができない。  このビルを入れて写した写真は、本当に数少ない。近くに在っては、大きすぎてその全景を撮影できなかったことも、写真の少ない理由の一つであろう。2001年の同時多発テロ事件で、かっての同僚二人も含めて、多くの銀行の仲間を失ったのは、残念であり、哀切の極みであった。 夜のエンパイア・ステート・ビル

『ピアノ協奏曲第二一番』 モーツァルト

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  この協奏曲は、モーツァルトがウィーンに滞在していた一七八五年に作曲された第二〇番、第二一番、第二二番の二番目に作曲された。モーツァルトはその時二九歳であり、モーツァルト自身によりウィーンのブルク劇場で一七八五年三月一〇日に初演されている。 諸井誠の『ピアノ名曲名盤一〇〇』によれば、「映画 ELVIRA MADIGAN (短くも美しく燃え)でバックグラウンド・ミュージックに用いられたアンダンテ(第二楽章)が広く知られており、その美しさには筆舌を尽くし難い、最良のモーツァルトの高雅なまでに洗練されたリリシズムが感じられる」と著わしている。 ペライアのレコードのジャケットの筆者である ARIANNA CHOLMONDELEY は、このアンダンテを下記の如くに表現している。 “The romantic Andante provides immediate contrast to the first movement through its use of muted strings, pizzicato bass, and extended cantabile melody accompanied by ceaseless triplet. Mozart maintains classic equality and balance between the orchestra and soloist by announcing the thematic material in the orchestra, repeating it in varied form in the solo part and, then, finally allowing the orchestra and piano to rework it together.” 「ロマンティックなアンダンテは、静かな弦、ピチカート(弦を指で弾く)ベース、および絶え間ないトリプレット(三連符)を伴う延長されたカンタービレのメロディーの使用を通じて、最初の楽章に即座に対照を与えます。 モーツァルトは、オーケストラの主題を表明し、ソロパートでさまざまな形でそれを繰り返し、最終的にオーケストラとピアノが一緒にやり直すことにより、オーケストラとソリストの古典的な平等とバランスを維持します。」

「モーツァルトのピアノ音楽」

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  ニューヨークでは結局モーツァルトのピアノ音楽が一番気に入ったので、ドイツ・グラモフォンのレコードも一番沢山購入したのは、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲であった。その他のレーベルも加えて、ピアニストではクリストフ・エッシェンバッハ、グレン・グールド、クララ・ハスキルそしてディヌ・リパッティなどのレコードが多い。それ以外では、マウリチオ・ポリーニ、フリードリッヒ・グルダ、アルフレッド・ブレンデル、ペーター・ゼルキン、ロベール・カサドシュ、クラウディオ・アウラ、エドウィン・フィッシャー、ワルター・ギーゼキング、マレイ・ペライアなどの弾くモーツァルトのピアノ曲を購入している。 最後のマレイ・ペライアは米国人であり、何と出身は私が在米中に住んでいたウェストチェスター・カウンティ〈郡〉のタカホの手前の駅で、長男と次男が生まれたブロンクスビルの町であった。年齢も一九四七年生れと、私より一歳年下である。レコードは下記の通りである。 PERAHIA PLAYS AND CONDUCTS MOZART   PIANO CONCERTO No21 K467         MURRAY PERAHIA   ピアノ・指揮  PIANO CONCERTO No9 K271      ENGLISH CHAMBER ORCHESTRA このレコードのジャケットには、ピアノ協奏曲第二一番について、私が拙著『日本美への彷徨』で引用したアインシュタインの言葉がより詳細に表記されている。 “The whole concerto is one of the most beautiful examples of Mozart’s iridescent harmony and the breath of domain embraced in his conception of the key of C major.  -----When one listens to such a work, one understands why Mozart wrote no symphonies in the earlier Vienna years, for these concertos are symphonic in the highest sense, and Moza

「ドイツ・グラモフォンのレコード」

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  ニューヨーク支店にはクラシック愛好家が多く、多少ともクラシックを聞いておかなければ会話に参加出来ない時があった。また日本では高価なドイツ・グラモフォンの LP レコードが、 SAM GOODY というお店で割安に購入できるとのことであった。しかしどの作曲家のどの演奏家によるレコードを買ったらよいのか、皆目わからない。音楽の中ではピアノ音楽が、わかり易いと思っていたので、最初に諸井誠の『ピアノ名曲名盤一〇〇』という本を購入して、それに沿って少しずつ LP レコードを買い始めた。昭和五一年の秋頃からである。購入場所は SAM GOODY が一般的で、時にコルベッツ等の百貨店でも購入している。ドイツ・グラモフォンのレコードが日本では二〇〇〇円から二五〇〇円の時代に、米国では 5 ドル弱であった。為替が一ドル三〇〇円弱であったから、円換算で一五〇〇円と安かったのを覚えている。その他のレーベルは、 LP で三ドル弱であった。 音楽関係の本で、米国で購入したものはあまり多くなく、『名曲をたずねて』上・下巻 神保璟一郎 角川文庫、『ピアノ名曲名盤一〇〇』 諸井誠 音楽の友社、『音楽を愛する友へ』 EDWIN FISCHER 佐野利勝訳 新潮文庫、『主題と変奏』吉田秀和 中公文庫、『一枚のレコード』吉田秀和 中央公論社 くらいである。 音楽というものは、もともとは楽器や人間の声で共生集団に霊感やパワーを与えるために創り出され、やがてそれは神を讃えるための宗教音楽となり、富裕な王侯・貴族を中心に楽しまれてきたが、市民生活の充実に伴い、市民のための音楽というものに移り変わってきた。楽器も打楽器・管楽器・弦楽器・チェンバロ・ハープシコード・ピアノそして現代の様々な楽器へと進化してきている。 クラシック音楽に関していえば、自然界や人間界における様々な現象や心象を、楽器や歌手、コーラスなどにより、音による抽象的な美と感動として表現するものとなっている。したがってその抽象性を言葉で表すのは困難を伴うが、吉田秀和はいとも簡単に音感と言葉の境界線を乗り超えて、音楽を文章化してしまう達人であると感じた。 オーク・ヒル(Westchester,NY)

「一九七五年のマンハッタン探索」

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  当時最新鋭のエルモの八ミリビデオを日本から持ち込んで、ニューヨークの六年間の思い出を写しているが、一九七五年には夏季の旅行はしていない。マンハッタンの中での探索が多かったようである。初めてのフレンチ料理でエスカルゴを食べたこと、リンカーン・センターで行われていた MOSTLY MOZART で CHRISTOPH ESCHENBACH が演奏と指揮をするピアノ曲を聞いたこと、ラジオ・シティのショウを観劇、バッテリー・パークの散策、 EMPIRE STATE BUILDING に登りマンハッタンの夕景を楽しんだこと、メトロポリタン美術館の別館であったクロイスターの拝観、五番街の SACKS FIFTH AVENUE や BLOOMINGDALES 等の百貨店、そして TIFFANY でのウィンドウ・ショッピング、そして ROCKFELLER CENTER や ST. PATRICK CHURCH を見て回ったりした。  また同じオークヒルのお仲間と、公園でバーベキューをよく楽しんだことも、今となってはいい思い出である。 遠出としては、ハドソン川沿いのタリー・タウンの北側の町スリーピー・ホロウにある PHILIPSBURG MONOR 。ここは一七〇〇年代のオランダ人の商人の館で植民地時代の雰囲気を味わえる場所であった。あとは二、三回ほど行ったと思われるニュージャージー州にあった JUNGLE HABITAT 。それに秋に K さん、 K さん、 N さんとご一緒したロング・アイランドにある COMMACK HILLS GOLF CLUB でのゴルフなどである。 このエルモのビデオは五分間の長さのフィルムしか撮影出来ず、少しずつしか写せないもののであったが、フィルムは現像してテープでつないで大きなリールに巻いて、映写していたが、映写機の販売が中止となって、中古の映写機を購入して来てはまた壊していた。ついに中古も販売が無くなり、フィルムのみ保管していたが、ある時少し費用は掛かったが、それを DVD に移してもらって、今はテレビで再生できるようになった。 公園でのバーベキュー

「プエルト・リコへの夏季旅行」

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  住まいと車を準備して、英語や仕事にも慣れた一九七三年の終わりごろに、妻が I さん家族とご一緒に渡米してきた。アパートの向いに N 航空の K さんご家族がおられ、米国生活に慣れず、英語もできない妻は、少し前にニューヨークに来られた英語の達者な K 夫人から色々と教えて頂き、夫婦ともどもお世話になった。 翌年の夏休みには、どういうきっかけか忘れたが、カリブ海のプエルト・リコに二泊旅行をした。プエルト・リコは米国の自治連邦区でコモンウェルスという政治的地位にある属領である。ニューヨークにはプエルトリカンが多く、当時通勤で乗降していた地下鉄のフルトン駅は英語とスペイン語で案内があるほどであった。もともとはスペインの属領であったが、一八九八年のメイン号謎の爆沈事件で米西戦争が起こり、結果的に米国の属領となったわけである。 PUERTO RICO は「豊かな美しい港」という意味で、主都はサン・フアンである。ホテルはマリオットで、近くの LUQUILLO BEACH ( ルクイッジョ・ビーチ ) が美しい砂浜であった。観光には古い砦を見に行ったが、その名前は憶えていない。またサン・フアンの港には大型のクルーズ船が多数入港しており、そこで飲んだ Piña Colada (ピーニャ・コラーダ)が最高に美味しかった。プエルト・リコはラム酒の名産地であり、このカクテルはラムをベースに、 パイナップルジュースとココナッツミルクを砕いた氷と一緒にシェイクして作るロングドリンクであり、ラムは地元の BACARDI (バカルディ)社のものである。バカルディ レガシー カクテル コンペティションはバカルディ社がスポンサーとして、毎年プエルト・リコで開催されているとのことは、銀座六丁目にあるスタンド・バー洋酒博物館のマスターと話していて、初めて知った。この旅行の土産にシーバス・リーガルの一二年物・(四・五 L )ガロン瓶をお土産に買ったが、ニューヨークの空港で見当たらず、支払った金額だけの払い戻しがあった。今更惜しいことをしたと思う。 プエルト・リコ

「MOMA」

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ニューヨークで次に訪れた美術館がニューヨーク近代美術館である。 THE MUSIUM OF MODERN ART(MOMA) は、マンハッタンのミッド・タウン五三丁目にあり、設立は一九二九年である。代表的な所蔵作品は、絵画に限って言えば次の通りである。  フィンセント・ファン・ゴッホ    『星月夜』 一八八九年  アンリ・ルソー           『眠るジプシー女』 一八九七年  パブロ・ピカソ           『アヴィニョンの娘たち』 一九〇七年  サルバトーレ・ダリ         『記憶の喪失』 一九三一年   などであるが、上記の中ではアンリ・ルソーの『眠るジプシー女』の記憶が一番印象的である。それというのもこの絵の絵葉書を MOMA で購入して以来、ずっと大切に保管し続けているからである。夜の砂漠に中近東風の虹色の縦縞模様の衣服を着たジプシー女が、マンドリンを傍らに眠っている。そこへ近づいてきたライオンは、ジプシー女を襲おうとするのでもなく、見守るかのように佇んでいる様子の描かれた絵画である。一枚の絵葉書のゆえに、この絵は一生忘れることのできない絵となったのは不思議なものである。 実は私が当美術館を拝観した一九七三年当時には、まだピカソの『ゲルニカ』を MOMA が預かっている時期であり、 MOMA を訪れたのもこの絵画を見るためであった。この絵はピカソがスペインのゲルニカへの爆撃を描いたものであり、一九三七年のナチス・ドイツによる世界最初の都市無差別爆撃の悲惨さを余すところなく表現している。この絵は一九三七年のパリ万博に出展されて、その後パリにあると危険なため、米国の美術館を周り、最終的に MOMA で保管されていた。一九八一年に『ゲルニカ』はスペインに返還され、一九九一年にソフィア王妃芸術センターで保管されることとなった。   「ゲルニカ」(大塚国際美術館)

「メトロポリタン美術館」

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ニューヨークで最初に訪れた美術館が、メトロポリタン美術館であった。 The Metropolitan Museum of Art 、通称 The Met は、世界最大級の美術館で、設立は一八七〇年である。設立の構想は、 一八六四 年 、 パリ で 七 月 四 日 の アメリカ独立記念日 を祝うために集まった 米国人 たちの会合の席で、参加者の一人であるジョン・ジョンストンによって提案された。その時点で米国は、美術館はおろか一枚の絵さへ国もしくは地方自治体は所有していなかったのである。 その後は基金による購入やさまざまな階層からの寄贈により、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品のほか家具・楽器・装飾品など三〇〇万点の美術品を所蔵しているという。ルーブル美術館と同じく、一日で館内を拝観して回ることは、困難である。 別館としては、アッパー・マンハッタンのハドソン川沿いにフランスやスペインの僧院を解体して造られた「クロイスターズ」があり、中世ヨーロッパ美術が展示されている。また元のホイットニー美術館の建物を借りて、二〇一六年三月よりもう一つの別館「メット・ブロイヤー」を開館しており、ピカソの作品などキュービズムを中心としたモダンアート・コンテンポラリーアートの展示も行っているようである。 主な作品で拝観した記憶のあるものは、下記の通りである。   古代エジプトのデンドゥール神殿 紀元前一世紀ころ  エル・グレコ        『トレドの風景』 一五九七年  ヨハネス・フェルメール   『リュートを調弦する女』 一六六二‐六三年頃 『水差しを持つ女』 一六六四 - 六五年頃               『眠る女』     一六六五 - 六六年頃               『少女』      一六六六 - 六七年頃               『信仰の寓意』   一六七一 - 七四年頃 尾形光琳          『八つ橋図屏風』  一七一一 - 一四年頃 ピーテル・パウル・ルーベンス   『ヴィーナスとアドニス』 一六三〇 - 三六年 ジョルジュ・ラ・トゥール  『悔い改めるマグダラのマリア』 一六四〇年 レンブラント・ファン・レイン   『ホメロスの胸像を見つめる                        

「ニューヨーク支店へ」

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  昭和四八年五月末にニューヨーク支店への転勤発令を受け、健康診断や引越し手続きなどを終えて、 PAN  AMERICAN 航空でアンカレッジ経由ニューヨークのケネディ空港へ到着したのは、六月の下旬であった。一年先輩の N さんが、 K さんと一緒に赴任した私を迎えに来て下さり、真っ赤なギャラクシーのフル・サイズ・カーでそのまま支店の夕食会の会場であるミッド・タウンの日本倶楽部へ向かった。 宿泊のホテルはミッド・タウンのウェリントン・ホテルであり、すでに先週着任されていた I さんもご一緒だった。翌日二本ある世界貿易センター・ビルの ONE WORLD TRADE CENTER  BUILDING ( WTC ) に初出勤したが、その巨大さと高さには本当に驚嘆した。先ずは一階から七八階まで三〇人乗り以上の大きさの巨大なゴンドラで登り、そこで乗り換えて八一階の当行オフィスまで行った。早速同期の E 君から、ドキュメンタリー部門の担当の引継ぎを受ける。 One World Trade Center 

「沖の石の讃岐」

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  常神半島にはもう一つ有名な島がある。それは百人一首で有名な「沖の石の讃岐」の次の和歌である。   わが袖は塩干に見えぬ沖の石の  人こそしらねかはくまもなし  二条院讃岐   この島というより岩島は、神子より塩坂の方へ戻る九十九折りの岬のあたりから見えるが、この辺りが二条院讃岐の父であった源三位頼政の所領であり、讃岐もこの若狭へ訪れているらしい。 源三位頼政と言えば、 後白河天皇 の皇子である 以仁王 と結んで挙兵をし、平等院の戦いで敗れて自害 をしている。 花咲かば告げよと言ひし山守の      来る音すなり馬に鞍置け             源頼政 私の好きな和歌である。 小石川植物園

『かくれ里』 白洲正子 「神子の山桜」

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  これは随分後の話となるが、平成一三年頃に白洲正子の『かくれ里』を読んでいる時、「神子の山桜」の章に区長として義父の名前が登場していたのであった。たまたま我が家でお正月休みを過ごしていた義母に「昭和三九年頃に白洲正子が神子に来て、亡くなった義父が神子の山桜を白洲正子に案内したそうだけど覚えているか」と聞いてみたが、「さあそういえば何か偉い人が来たようなことがあった」と、曖昧な返事であった。 「若狭のどこかに『神子ざくら』といって、大そうきれいな花があることを聞いていたが、へんぴな所らしく、京都でたずねてみても誰も知っている人はいない。仕方なしに、東京の編集者さんにしらべて貰うと、それは敦賀と小浜の間につき出た、常神半島の一角にある、神子部落という村で、桜は満開だから、今日明日にも来い、ということである。電話に出たのは、その村の区長さんで、京都からくるなら、車の方がいい、敦賀に出て、国道を西へ行くと、三方という町がある、そこで聞けばわかると、ことこまやかに教えて下さった。」 「神子に近づくにしたがい、大木の桜があちらこちらに見えはじめ、塩坂、遊子、小川を過ぎ、最後の岬を回ったとたん、山から下の浜へかけて、いっきに崩れ落ちる花の滝が現出した。人に聞くまでもなく、それが名におう『神子ざくら』であった。」 「嘗ての嵐山も、ほぼこれに近い盛観だったのではあるまいか。区長さんに伺ったところによると、この桜は観賞用に植えたものではなく、ころび(桐実と書く、油をとる木)の畑の境界に植えたものとかで、村人の生活と結びついていたために、手入れもよく行きとどいた。そういわれてみると、やや正確な井桁模様に咲いており、そういう風習がなくなった今日、保って行くのは大変なことではないかと思う。  神子は古く『御賀尾』と書き、それがつまってミコと呼ばれるようになったと聞く。だが、古い歴史を持つ土地がらであってみれば、必ず神様と関係があったに違いない。」         白洲 正子  『かくれ里』 「花をもとめて」 神子桜

「『万葉のうた』 岩崎ちひろ挿絵 著者は大原冨枝」

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茜指す紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る  額田王女 紫の匂へる君を憎くあらば 人妻ゆへに我恋ひめやも  大海人皇子  大阪外国事務課へ転勤して以来、岩波新書の『万葉秀歌』上下・斎藤茂吉著を購入して、万葉時代の歴史を紐解きながら、万葉集の中でも相聞歌や挽歌の秀歌を暗唱できるように読みこんでいた。そして生涯の伴侶に最初に贈ったのが、万葉集の相聞歌であった。  妻の実家は、若狭の三方五湖の先に延びている常神半島にある。 若狭なる三方の海の浜きよみ いゆきかへらひ見れどあかぬかも (若狭の三方湖の浜は清らかなので、行きも帰りも見るが見飽きることはない)       詠み人知らず  『万葉集』 巻七 一一七七   常神半島の由来は神功皇后を祀る常神社によるものと言われ、半島の先にある御神島には神が宿っていて、様々な厄災から人々を守ったという。『古事記』には、神功皇后が熊襲征伐に向かう時、角鹿(敦賀)を出て 淳田門(ぬたのと)で食事をしたとき、鯛が沢山寄ってきて、神功皇后がお酒を与えると鯛がまどろんで皆浮かんできたという。それ以来、常神半島辺りでは五月になると鯛がよく釣れるという「まどろみ鯛伝説」があるという。神功皇后は息長一族に属しており、古代には近江国坂田郡を根拠地にして、若狭や敦賀一帯を治めていたという。 以下は私見であるが、神功皇后の神から由来しているという説明も肯けるが、表日本であった若狭一帯は朝鮮半島からの入り口でもあり、常神や神子という名前についている神は、韓の国からの渡来人を神として受け入れたという背景もあったのではなかろうか。 神子の海辺

『古都』と『美しさと哀しみと』

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『古都』と『美しさと哀しみと』から、印象に残っているふたつの文章を書き留めておきたい。   「『壺中の天地』という話が、大むかしの中国にあることは、千恵子も知っている。その壺中には、金殿玉楼があり、美酒や山海の珍味にみちていた。壺中はつまり、俗世間をはなれた、別世界、仙境であった。数多い仙人伝説の一つである。」          川端康成  『古都』   「京都の寺院の石組の庭は、いくつか今に残って知られている。西芳寺の石庭、銀閣寺の石庭、龍安寺の石庭、大徳寺大仙院の石庭、妙心寺退蔵院の石庭などが、その主なものであろうか。なかでも、龍安寺の石庭はあまりに名高いどころか、禅学的にあるいは美学的に、ほとんど神格化されていると言っていいだろう。―――  上野音子はそのどれも見なれて頭にある。――― 西芳寺の石庭は、石庭としては最も古いし、また力強くもあるのではないか。」          川端康成  『美しさと哀しみと』 大徳寺本坊  

「京都と川端文学」

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 『川端康成-内なる古都』河野仁昭著によれば、川端は茨木の生まれ育ちではあるが、京都には住んだことはなく、川端の京都への関心は、茨木中学生時代に長田幹彦の祇園を描いた小説や吉井勇の京を詠じた短歌に接することによって育まれたのであった。それを考えると、私の京都への関心の背後に、川端文学の『虹いくたび』『日も月も』『美しさと哀しみと』『古都』という京都を舞台にしている小説を読んだことがあるのかも知らない。それらの小説の舞台となった寺社などを、結構私も訪れていることが分かった。この四冊の小説に出てくる京都のお寺などを、列記してみる。   『虹いくたび』 昭和二五年 一九五〇年 五一歳の作品  都踊り 大徳寺 (聚光院 孤蓬庵 総見院 龍翔寺 高桐院) 桂離宮  銀閣寺 法然院 天龍寺 安楽寺 霊鑑寺 若王寺 南禅寺 辻留   渡月橋 嵐山 小倉山 法輪寺の虚空蔵   『日も月も』 昭和二七年 一九五二年 五三歳の作品    大徳寺 孤蓬庵 鷹峯 光悦寺(太虚庵 光悦垣) 源光庵 中宮寺の彌勒   『美しさと哀しみと』 昭和三六年 一九六一年 六二歳の作品    都ホテル 嵐山 渡月橋 亀山公園 化野 祇王寺 円山公園 知恩院  鞍馬山 西芳寺 銀閣寺 龍安寺 大仙院 退蔵院 桂離宮 鴨川 東山  念仏寺 木屋町 川端通り 二尊院 京都ホテル 時雨亭 常寂光寺   厭離庵 相国寺 広沢の池 東寺 琵琶湖ホテル   『古都』 昭和三六年 一九六一年 六二歳の作品  平安神宮 南禅寺 知恩院 円山公園 清水寺舞台 嵐山 野々宮 二尊院  化野 木屋町 高瀬川 堀川 北山 東山 叡山 植物園 嵯峨 御室仁和寺  祇園祭 葵祭 高雄の紅葉 神護寺 高山寺 清滝川 北山杉 祇園さんの夜桜  北野神社 青蓮院 島原の角屋 鷹峯 京都御所 上賀茂神社 下賀茂神社  鹿ヶ谷の安楽寺 蓮華寺 黒谷の寺 北山しぐれ     こうして四作品に出てくるお寺の名前を見てみると、大徳寺や嵯峨野のお寺そして鷹峯などがよく出てくるが、全体を見ると京都を隈なく川端が見て回っていることがよくわかる。 光悦寺 太虚庵

「一九六八年から一九七三年の間の読書」

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  富士銀行広島支店と大阪外国事務課の在勤中は、あまり沢山の読書はしていない。社会人となって覚えなければいけないことが多かったからである。   『草の花』 『風土』 福永武彦      『友情論』           ボナール 『田園交響曲』   アンドレ・ジイド   『人間について』  ボーボワール 『誘惑者の日記』  キルケゴール     『月の光』     井上靖 『掌の小説』  『虹いくたび』  『日も月も』   『女であること』 『 舞姫』  『古都』 川端康成 『私の人生観』   小林秀雄        『今ひとたびの』     高見順  『新聖書講義』       河上徹太郎              『二十歳のエチュード』   原口統三    これ以外にも読書したのであろうが、今残っている文庫本を調べてみると上述の本しか残っていない。 足立美術館

「レンタ・カーでの奈良逍遥」

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  広島から大阪へ転勤して一年ぐらい後であろうか、広島から聖母幼稚園の M 先生(文芸の師匠)、 Y 先生、 K 君、 S 君がやってきて、皆でレンタ・カーを借りて奈良の古寺巡礼をすることになった。 今となってははっきりとした記憶はないが、多分法隆寺をスタート地点として、夢殿、 中宮寺、法輪寺、法起寺、それから慈光院、そして薬師寺、唐招提寺、東大寺大仏殿、二月堂、三月堂、戒壇院、興福院、不退寺、法華寺、秋篠寺辺りを周ったように思う。奈良の古寺巡礼を本格的に行ったのは、大学四年生以来の二度目であった。 法隆寺

「京阪神サッカー部へ入部」

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  昭和四六年八月に外為業務部大阪外国事務課への転勤の発令を受けた。その発令後まもなく京阪神サッカー部の K 監督から電話があり、着任したらその次の週は東京サッカー部との対抗戦のため東京に遠征する予定という話があった。有無を言わさずの入部命令である。当時京阪神サッカー部は創部して一年と経っておらず、中四国九州よりサッカー部にいたことのある経験者をこの転勤の際に集めたらしい。 仕事の方は外為特有の事務英語の飛び交う職場で輸出の初鑑を担当して、専門用語を覚えるのに苦労した。この課で休日に奈良などへのハイキングがあり、二上山の山頂近くの大津皇子の墓に参ったり、飛鳥の里をハイキングしたりした。また再度中宮寺を訪れて、憧れの弥勒菩薩との再会を果たした。この時期は京都の寺も周ったが、奈良の寺の方が巡った回数は多かったかもしれない。 大阪ではサッカーのグラウンドが至近距離にある千里丘独身寮に入寮して、淀屋橋にある大阪支店ビルの三階の外国事務課に通勤していた。サッカー部の練習では、広島大学で取り入れていた有名なクラマー・コーチの準備体操を採用してもらい、また攻撃や守備の練習に広島大学時代のやり方を行って、京阪神サッカー部の実力向上に努めた。フォーメーションに関していえば、当時はまだ WM の古い形であり、私はライト・インナーのポジションが多かった。入部して半年後にはキャプテンとなり、圧倒的に劣勢であった東西対抗戦も、二年目には確か負けはしたものの、五対三の接戦となるまで、戦力は向上してきた。二年目の春のインターバンク・トーナメント戦では、勝ち進んで決勝戦まで行ったが、第一勧業銀行との決勝戦においてペナルティ・キック戦で敗れて、準優勝となったのは残念であった。京阪神サッカー部は私が転勤して二年目にリーグ戦優勝を果たして、表彰された。 京阪神サッカー部 (前列右から三人目)

「彌勒との逢瀬」 (詩集『憧憬』より)

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    このいかるがの尼寺におわすのは 「いづれを君が恋人と分きて知るべき術(すべ)やある」 と歌いながら 猫柳のしなだれかかる川面に入水したオフェーリア ではなくて彌勒さまです 半跏思惟の姿で世の平安を祈願し瞑想している 彌勒さまです   貴方と初めてお逢いしたのはおとどしの神無月 秋ののびやかな日差しの殆んど入り込まない 博物館の一隅で 貴方は私を待っておいでになった   その柔らかな口もとの微笑み 貴方はまことに心の深いところから そうしてそのまろやかな姿態すべてで 微笑んでおられる 笑みというものがこのように素直に しかも心の奥底から湧いてくることも ありうるのだということに 私は心打たれました   そうして今また 貴方の足元に跪いて 貴方の高貴なお顔を見上げると 私の奥深いところで 貴方の瞑想してこられた長い歳月が 甦ります 聞こえるのです 貴方の中から大和民族の 歓喜と悲哀の長い尾を引く声々が   御仏を前にして私たちが敬虔になるのは 私達個々の生を乗り超えた 大和民族の悲喜交々の声を 私達が御仏の中に見出すからでありましょうか その時私達の声も 御仏が未だ過ぎやらぬ彼方の時空へと お運びになるのだと 思われるからでありましょうか   彌勒さま 貴方の中に溶けこんで 私は過去と現在そして未来の 全ての時空に触れるのです 私の中には永劫のしるしがない   緑の葉を陽が透かして 貴方のみ姿がさわやかな秋の風に 浮かんで見えます ひとときの逢瀬が私の心を和ませます   見仏聞法 卑小なる人智により永劫を見出すのではなく 御仏のおおらかな慈悲に包まれて 永劫を感ずること これこそが私達に許された唯一の法悦なのだと 私は今にして思います   敷島の大和心に 私の中に棲まぬ永劫に そして私達をはるかに超えた時空にと 貴方は私を導いて下さる   彌勒さま 貴方の前で私は永久(とこしえ)に 私を失いつづけたいものです    この二つの散文詩らしきものを読み返すと、仏像・大和民族・見仏聞法・永劫・星々・崇高と

「神 話」 (詩集『憧憬』より)

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   銀色の砂子は 空間に氾濫して 私の眼の中に 清冽さを降り注ぐ   かつて私はオリュンポスの神々の如く 天翔ける存在になりたい と望んだ 神々は私にとって 崇高と永遠の具体であった 見えぬ手が大空より ぬっと突き出て 私を青暗いエーテルの中に ひきずり込んでくることを 私は夢みた   だが今の私はもう ギリシャ神話を解さない 天文学的な数の輝きに拘泥しない 私は只見詰める 私という天体で輝く星を   その星は遥かに遠く 天と地の創造される以前より 私の中で輝く日を 待ち受けていた   私は感じる 私は宇宙塵にすら劣らぬ程 無意味で卑小な 幾何学的点であるが この星を擁する私の天体は いかなる空間よりも 更に悠久なることを   私の為に残されていた神話は ひとつの星しか産みはしなかったが その星は 二次元の世界を超えたところからの ものであることを   自家撞着と二律背反の カオスの裡にあって 私はこのプラチナの恒星に 指針を求める   不安と喪失の雲が 私の天体を蔽わんとする時 私はこの精神的浄化の核である 煌めきに目を凝らす 幾千の宝石を鏤めた 大地の青い王冠より ただひとつの煌星を戴く私の天体の なんと清浄にして高邁なことよ   私は信ずる 時間と空間の彼岸で 胎まれた私の神話を   私は願う 有限な私の中で結晶された星の 未来永劫に輝くことを   かのイスラエルの瑞星が 東の国の賢者たちを ベトレヘムの馬小舎へと導いていった如く 私のこの星は 私の前に聖なる誕生への道を  照らし続けるだろう 花の聖母大聖堂(フィレンツェ)

「自費出版の詩集『憧憬』」

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富士銀行に入行して二年目の昭和四四年(一九六九年)に、 M 先生のご母堂のお世話で詩集『憧憬』を自費出版した。内容は高校時代と大学時代に書き残した星菫派的な詩と散文詩を取りまとめたもので、稚拙なものであったが、今となればその当時を思い出す記念碑の一つとなっている。なお「憧憬」という言葉と出会ったのは、倉田百三の『愛と認識への出発』であったことが、今回青春の書を探っていて分かった。 同じ頃に友人の K 君も『ながれ』という本を上梓し、その「あとがき」に「青春の思い出がやっとここに残った」と書いているが、本当にその通りである。若書きの『憧憬』の中から、詩というよりも散文ともいうべき二つを取り出して、ここに書き写しておきたい。   詩集 『憧憬』

「読書会 翌檜」

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  富士銀行広島支店に昭和四三年に入行し、新入行員としての修業が始まったが、昭和四二年入行の First 会と四三年入行のひとみ会のメンバーが、昭和四三年五月に喫茶店・紅蜂で集まり、読書会を結成することとなった。 最初の読書会は六月の某日で、場所は喫茶・紅蜂で開催された。以降読んだ本は、下記の通りである。なお場所は第六回より喫茶・琥珀に変わった。   昭和四三年六月   『愛の妖精』     ジョルジュ・サンド        七月   『愛と死との戯れ』  ロマン・ローラン        九月   『田園交響楽』    アンドレ・ジイド        一〇月  『星の王子さま』   サン=テグジュペリ   昭和四四年一月   『草の花』      福永 武彦        二月   『宣言』               有島 武郎        三月   『虹いくたび』    川端 康成        四月   『青春論』             亀井 勝一郎        五月   『光あるうち光の中を歩め』   トルストイ        七月   『出家とその弟子』  倉田 百三        八月   『あすなろ物語』   井上 靖        一〇月  『新しき糧』     アンドレ・ジイド    「翌檜」ノートに記載してあるのは、ここまでである。この辺りで当読書会は自然消滅したのかもしれない。しかし銀行に入ってもまだ半分学生気分が抜けないでいたような気がする。 小石川後楽園の枝垂れ桜